『詩経』 秦風 黄鳥(しきょう しんぷう こうちょう)  はじめに

 ~ チャイナ古代の殉死に見る空気(風潮) ~


【還暦ジジイの説明】

黄鳥(こうちょう)』は、殉死(じゅんし)した良臣三人を(いた)んだ鎮魂歌(ちんこんか)なのですが、後代まで賛否両論、波紋を呼んだ。

この『黄鳥』の詩に関連して四つの解釈が見られ興味深い。

そこで、今回は、詩を理解するのと同時に、時代の空気(風潮)を読み取ってみたいと思います。


チャイナ、春秋時代「春秋五覇の一人」と(うた)われた(しん)の王・穆公(ぼくこう)は、崩御(ほうぎょ)に際して、177人の臣下、側近及び宮女などを道連れにした。

所謂(いわゆる)殉葬(じゅんそう)です。

この中に良臣と評された子車(ししゃ)氏の三人の息子(奄息(えんそく)仲行(ちゅうこう)鍼虎(けんこ))も含まれていた。

その三兄弟の死を(いた)んで()んだのが、この『黄鳥』の詩。作者不詳です。



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  <その1へ続く>



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【解説】

『詩経』 ・・・ 古代チャイナの詩歌集。周から春秋時代(前11世紀~5世紀)に民間で歌われていた三千余の歌謡から、孔子が選んで編纂(へんさん)したもの。全305篇。

  註:孔子が編纂したとする考えに異を唱える学者も居る。

  王劉徳が発見した秦代以前のテキストを『毛詩』と呼ぶ。
  『毛詩』には、本文以外にも毛萇の解釈を伝える「毛伝」と、詩の大意を記した「詩序」が付されていた。
  その後、後漢に入ると鄭玄が『毛詩』に「箋」(又は「鄭箋」)と呼ばれる注釈書を作った。
  現行本の『詩経』は、この系統のテキストを継承している。



〇『詩経』は、風(ふう)、雅(が)、頌(しょう)の三部に分かれている。

  「風」は、国々の民謡を集めたもの。「国風」とも。鄭風、斉風、魏風、唐風、秦風など15ケ国の項に分かれる。
  詩経全体の半分以上、160編ある。

  「雅」は、宮廷の音楽を集めたもの。「小雅」と「大雅」に分かれる。全105編。

  「頌」は、宗廟の祭祀の楽歌(先祖をたたえる歌)を集めたもの。「周頌」「魯頌」「商頌」の三つに分かれる。全40編。

  詩経の歌はいずれも作者不詳。

『黄鳥』 ・・・ 「秦風」の項に収録六されている詩。三章からなる。第一章は、奄息。第二章は、仲行。第三章は、鍼虎である。


【語彙説明】


 黄鳥(こうちょう) ・・・ コウライウグイス(高麗鶯)

 


〇殉死(じゅんし) ・・・ 王や主君の死に際し、家臣、従者等があとを追って自発的ないし強制的に死ぬこと。

 また、夫の死後、後を追って妻が死ぬこと。

 方法としては縊死、生埋め、割腹 (かっぷく) その他があった。

 古代エジプト、メソポタミア、チャイナ、インドなど世界中で行われていた。

 チャイナでは妻が夫の死に対し殉ずることも広くみられた。
 これには、女性が親や夫、あるいは夫の両親、一族の財産であり、献身的に従うことを
 要求される道徳や、貞節を重んじる観念から再婚を防ぐ考えを背景としていた。

 それゆえ、儒教道徳を治政の基本とする公的権力から認知されていた。


〇殉葬(じゅんそう) ・・・ 王侯の死に際し、従者や侍女を殉死させて葬る古代の風習。

 王侯など主人の墓に死者の供として殉死者を同時に葬ること、及びその遺構をいう。

 チャイナでは、河南省安陽県武官村にある殷(いん)の大墓に見られる。

 その殉葬は殺してから埋葬した殺殉が大半を占め、中には断頭した殺頭葬もあることが特徴。


 エジプトでは、来世の存在を信じていた時代の風習(来世観)とも言われる。

 古文献によると、生きながら埋められた場合もあった。

 チャイナでもエジプトでも、墓を造った工夫が強制的に生き埋めにされている。

 理由は、遺構の場所を隠すためである。

 その目的は、後世に、埋葬品の盗掘を避けることと、敵国に墓を暴かれない為である。

 人間に限らず犬や馬を葬ったものも殉葬という。

 「道連れ」「犠牲」という表現と区別される。


鍼虎(けんこ) ・・・ 子車氏の三兄弟の一人。読み方は「けんこ」「かんこ」と両方あるが、『漢詩大系 第一巻 詩経 上』(集英社)に従って「けんこ」とした。


【人物プロフィール】


〇穆公(ぼくこう)

  チャイナ、春秋時代の秦の君主 (在位・前 659~621年) 。繆公とも書く。姓は嬴(えい)。諱は任好(じんこう)。父は徳公。

  春秋時代の秦の君主は「公」と称した。他国なら「穆王」とか「穆大王」であろうか。

  秦は中原諸国から夷狄(いてき)視されていたが、兄二人の跡を継いで即位すると、百里奚(ひゃくりけい)蹇叔(けんしゅく)ら賢人を招き、国力を高めた。

  対外政策として晋の恵公、次に文公を擁立して威を張ったが、晋の襄公との戦いで敗北。

  しかし、穆公三十六年(前 624年)には再び晋を攻撃して大勝した。また、戎人の由余(ゆうよ)を用いて西方に領土を拡大した。

  春秋時代、秦の第一の賢君として「春秋五覇の一人」と称された。

  逝去後、多くの家臣が殉死したという。


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