『詩経』 秦風 晨風(しきょう しんぷう しんぷう)
【還暦ジジイの説明】
「晨風」には二つの解釈がある。
一つ目は、素直に詠んだ通りで、出征している夫を想う妻の詩である、と云う解釈。
二つ目は、先君・穆公が賢臣を用いていたのに、康公はその賢臣を解任したことを謗ったと云う解釈。
当然、語彙の解釈も異なる。
前者では、晨風(しんぷう)は「朝風(あさかぜ)」の意味。「北林(ほくりん)」も「北の林」の意味。
君子は「夫(おっと)」の意味。
(下記の読み下し文、現代口語訳は、この解釈に従った。)
後者では、晨風は、動物の鳥の「鸇(はやぶさ)」を示し、「賢人」の意。
「北林」は宮廷内にある林を指し、「君主に召された人々が集う場所」の意。
君子は、「君主の穆公」を指す。
先君・穆公は賢人を招き、帰住させた、と云う解釈である。
そして、「どうして、どうして、私を忘れてしもうたか」と嘆いているのは、妻ではなく穆公の心情である、と。
穆公が息子・康公に対して、なんと情けない奴ちゃ、と責めているのだとの解釈である。
なるほど、「君子」を夫(おっと)と解するか、君主とするか、それによって全体の解釈は大きく異なる。
『黄鳥』にしても、この『晨風』にしても、色々な解釈があるんですね。
我々一般読者は専門家ではないので、どの解釈が正しいか、ではなく、色々な解釈を知り、
自分なりに古の世界に遊んだ方が面白い、と思う。
【原文1】
鴪彼晨風、鬱彼北林
未見君子、憂心欽欽
如何如何、忘我實多
【読み下し文1】
鴪たる彼の晨風、鬱たる彼の北林
未だ君子を見ざれば、憂心欽欽たり
如何ん如何ん、我を忘るる實に多き
【現代語訳1】
はげしく朝風が吹いて、茂る林に秋が深い
久しく夫に逢えなくて、心配が深まるばかり
どうして、どうして、私を忘れてしまったのか
【原文2】
山有苞櫟、隰有六駮
未見君子、憂心靡樂
如何如何、忘我實多
【読み下し文2】
山に苞櫟有り、隰に六駮有り
未だ君子を見ざれば、憂心樂む靡し
如何ん如何ん、我を忘るる實に多き
【現代語訳2】
山には櫟の林があり、沢には梓楡がある
久しく夫に逢えなくて、心配ばかりで楽しめぬ
どうして、どうして、私を忘れてしまもうたか
【原文3】
山有苞棣、隰有樹檖
未見君子、憂心如酔
如何如何、忘我實多
【読み下し文3】
山に苞棣有り、隰に樹檖有り
未だ君子を見ざれば、憂心酔うが如し
如何ん如何ん、我を忘るる實に多き
【現代語訳3】
山には庭梅、沢には山梨
久しく夫に逢えないで、憂いは酒に酔うたよう
どうして、どうして、私を忘れてしまったのか
参照:『漢詩大系 第一巻』 「詩経 上」 著者:高田眞治 集英社 昭和41年2月28日発行
【解説】
『詩経』 ・・・ 古代チャイナの詩歌集。周から春秋時代(前11世紀~5世紀)に民間で歌われていた三千余の歌謡から、孔子が選んで編纂したもの。全305篇。
註:孔子が編纂したとする考えに異を唱える学者も居る。
王劉徳が発見した秦代以前のテキストを『毛詩』と呼ぶ。
『毛詩』には、本文以外にも毛萇の解釈を伝える「毛伝」と、詩の大意を記した「詩序」が付されていた。
その後、後漢に入ると鄭玄が『毛詩』に「箋」(又は「鄭箋」)と呼ばれる注釈書を作った。
現行本の『詩経』は、この系統のテキストを継承している。
風(ふう)、雅(が)、頌(しょう)の三部に分かれている。
「風」は、国々の民謡を集めたもの。「国風」とも。鄭風、斉風、魏風、唐風、秦風など15ケ国の項に分かれる。
詩経全体の半分以上、160編ある。
「雅」は、宮廷の音楽を集めたもの。「小雅」と「大雅」に分かれる。全105編。
「頌」は、宗廟の祭祀の楽歌(先祖をたたえる歌)を集めたもの。「周頌」「魯頌」「商頌」の三つに分かれる。全40編。
詩経の歌はいずれも作者不詳。
『晨風』 ・・・ 「秦風」の項に収録六されている詩。
【語彙説明】
〇鴪(いつ) ・・・ はげしいさま。
〇晨風(しんぷう) ・・・ 朝風。注釈書「毛伝」では「鸇(せん)なり」と記されており、はやぶさのことだが、今回は朝風とした。
〇北林(ほくりん) ・・・ 北の林。北は陰寒凄涼の意を含む。
〇君子(くんし) ・・・ 「君子とはその夫を指すなり」(「集伝」)
〇欽欽(きんきん) ・・・ 憂いて忘れない貌(かお)。
〇苞櫟(ほうれき) ・・・ 苞は叢生の貌(かたち)。むらがり生える櫟(くぬぎ)。
〇隰(さわ) ・・・ さわ。湿気の多い低地。湿地。=沢
〇六駮(りくはく) ・・・ 「毛伝」では「駮(はく)は、馬の如し」。
〇注釈書「陸疏」では「駮は梓楡なり」としている。要するに、植物の木である。梓楡の和名は「まゆみ」。
〇棣(てい) ・・・ 庭梅(にわうめ)。
〇檖(すい) ・・・ やまなし。山の梨。
〇如酔(にょすい) ・・・ 酒に酔ったように深く憂いに沈むさま。
【人物プロフィール】
〇穆公(ぼくこう)
チャイナ、春秋時代の秦の第9代君主 (在位:前 659~621年) 。繆公とも書く。姓は嬴(えい)。諱は任好(じんこう)。父は徳公。
春秋時代の秦の君主は「公」と称した。他国なら「穆王」とか「穆大王」であろうか。
秦は中原諸国から夷狄視されていたが、兄二人の跡を継いで即位すると、百里奚や蹇叔ら賢人を招き、国力を高めた。
対外政策として晋の恵公、次に文公を擁立して威を張ったが、晋の襄公との戦いで敗北。
しかし、穆公三十六年(前 624年)には再び晋を攻撃して大勝した。また、戎人の由余を用いて西方に領土を拡大した。
春秋時代、秦の第一の賢君として「春秋五覇の一人」と称された。
逝去後、多くの家臣が殉死したという。
〇康公(こうこう)
チャイナ、春秋時代の秦の第10代君主(在位:前622~609年)。父は穆公。
父・穆公が崩御すると重臣たちが次々と殉死。国力は大きく衰え、再び隆盛を得るのに時を必要とした。
紀元前620年、康公は「令狐の役」で晋に敗れた。
5年後、晋から亡命した士会を参謀役に据え復讐戦を仕掛け「河曲の戦」で晋軍を翻弄した。
しかし、晋に士会を誘拐され帰国を許してしまった。
父・穆公は英邁で知られ、秦を一大強国へと育て上げたが、康公は凡庸との評価。