一笑名優質却孱(いっしょうす めいまさりて しつかえってよわし)
【還暦ジジイの説明】
明治17年、鴎外はドイツ留学へ向かう約50日間の航海を漢文で綴った。
この漢詩は、その『航西日記』の冒頭の七言律詩。
鴎外秀作の一つとされているのだが、題名が付されていない。
よって、「無題〔一笑名優質却孱〕」と記される。
面白いのは、「名優」の読み方と意味について、学者間で物議を醸したことだ。(少し詳しい説明)
当初は「めいゆう」、則ち、有名な俳優の意味に捉え、それが通説だった。
ところが、「名優りて」(めいまさりて)と、訓み下すべきだと云う異論を唱える学者が出現した。
さて、どちらが正しいのか?
文意に相違はないものの、鴎外は何も記していないので、真相は判らない。
小島憲之博士は、『ことばの重み-鴎外の謎を解く漢語-』の中で、「名(な)は優(ゆう)にして」と読む方がしぜんである。
小説『舞姫』の中にも似た引用がある、と書かれている。
やはり、日本人としての肌合いからも、「名優(めいゆう)」はなかろう。
「名は優にして」または「名優りて」(めいまさりて)と訓み下す方が極しぜんで解り易い、と感じる。
学者間で解釈が異なることは、よくある。
漢詩漢文の短所が顕れた例の一つだ。
非常に短文で多くを伝える長所がある反面、誤読を招く短所もある。
諸刃の剣である。
因みに、漢検では、1級の読み問題で「名勝りて質孱し」として出題された。
「勝りて」としたのは、「優りて」(まさりて)に賛成なのだが、論争に巻き込まれるのを避けた所為だろう。
【原文】
鷗外「無題〔一笑名優質却孱〕」
一笑名優質却孱 依然古態聳吟肩
觀花僅覺眞歡事 題塔誰誇最少年
唯識蘇生愧牛後 空敎阿逖着鞭先
昴々未折雄飛志 夢駕長風萬里船
【読み下し文】〔小島憲之博士〕歴史的假名遣い
一笑す 名は優にして質却つて孱きことを、
依然たる古態吟肩を聳やかす。
花を観て僅かに覚ゆ真の歓事を、
塔に題すも 誰か誇らん最少年。
唯に蘇生が牛後を愧ぢしことを識るも、
空しく阿逖をして 鞭先を着け教む。
昴々未だ折けず 雄飛の志、
夢に駕す 長風万里の船。
【現代口語訳】〔小島憲之博士の訳〕
名のみ優といわれながら、かえって実質はともなわないのだと笑いすてる。
僕は依然として昔ふうの武骨スタイル、あいも変らぬ蛮カラで、肩を聳やかしつつ放歌高吟闊歩する。
合格者のうち最も若いともてはやされたところで、何の自慢になろうか、今の僕は花を見ることだけが楽しい。
蘇秦がものごとの尻尾となるのを恥としたことを僕はよく知っているので、ビリにだけはならなかった。
しかし、晋の劉琨の恐れたように、僚友である祖逖(あの三浦のやつ)をして遺憾ながら先を越されてしまった。
〔以下は他訳を参照〕
首席は取れなかったものの、僕は大きな志を、いまだに捨てていない。
僕は夢みる。いつかは万里を遠しとせぬ遠洋船に乗って、順風満帆でドイツ留学の旅につこうと。
【語彙説明】
〇一笑 ・・・ 笑って相手にしない。「一笑に付す」のこと。
〇名(な)は優(ゆう)にして/名優(めいまさ)りて ・・・ 聞こえは好いが中身が伴わないの意味。
〇孱 ・・・ 弱い。
〇古態 ・・・ 昔の姿。
〇聳吟肩 ・・・ 肩をそびやかして詩を吟じる。放歌高吟のこと。
〇観花 ・・・ 上野や墨堤の桜やあるいは亀戸の梅などを見物することであろう。鴎外の学生生活の一面だ。
「観花」を「合格者に宴を賜る杏園の花を指すとみて科挙にからめて考える」のが通説であるが、無理がある。
〇題塔誰誇最少年 ・・・ 唐代、科挙で進士に及第した人が、長安の雁塔に姓名を記入されることになっていたことを云う。
つまり、試験に合格したことを指す。
鷗外が、試験に合格したとはいえ、首席を得られなかった自分は、最年少であっても少しも自慢にならぬ、の意。
「同期の中で僕がいちばん若いということも、やはり誇りに思う」と解するのは文全体として意味が通じない。
〇唯識蘇生愧牛後 ・・・ 「蘇生」は、チャイナ戦国時代の遊説家・蘇秦のこと。「生」は人名につける接尾語。
彼の有名な「鶏の口となるとも牛の後となるな」と人に説いた。これが「蘇生が牛後」である。
〇空敎阿逖着鞭先・・・「阿逖」は晋の武将・祖逖のこと。「阿」は人名につける接頭語。
武将・祖逖の僚友であり好敵手でもあった武将・劉琨は、祖逖に先を越されることを常におそれていた。
しかし、結局は「先鞭」をつけられ、この祖逖との”出世競い”に敗れたのである。
ちなみに、「鞭先」は、脚韻をそろえるために「先鞭」の上下を逆にしたもの。
〇昴々 ・・・ 意気盛んなこと。
〇雄飛 ・・・ おおしく活躍するさま。
〇夢駕 ・・・ 「駕」は乗ること。「長風万里」理想の実現をめざしてどこまでも行くという勢いのこと。
【出典】
『ことばの重み-鴎外の謎を解く漢語-』 著者:小島憲之 新潮選書 昭和59年(1984年)発行
【原典】
『鷗外全集』 第三十五巻 岩波書店 昭和50年(1975年)発行
【漢検の出題】
平成24年度 日本漢字能力検定1級 (一)29問 「名勝りて質孱し」 (標準解答:よわ)
漢検協会は、「孱」の漢字を出題する為に借用したのだが、論争を避けて「名優りて」とせず「名勝りて」としたのだろう。
【プロフィール】
〇森 鷗外(もり おうがい、文久2年1月19日〈1862年2月17日〉~大正11年〈1922年〉7月9日)、60歳没。
日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。
位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。
島根県津和野町出身。東京大学医学部卒業。
大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。
帰国後、文筆活動に入った。日清戦争出征などを経て歴史小説や史伝なども執筆した。
〇小島 憲之(こじま のりゆき、大正2年〈1913年〉2月15日~平成10年〈1998年〉2月11日、84歳没。
日本の国文学者。大阪市立大学名誉教授。専門は上代文学、和漢比較文学。
〔経歴〕
1913年2月、鳥取県生まれ。鳥取県立鳥取第一中学校を経て、第三高等学校を卒業。
1938年3月、京都帝国大学文学部文学科卒業。同年4月、同大学大学院に入学。
1943年9月、京都帝国大学文学部教務嘱託。
大東亜戦争終結後、1946年9月より京都大学大学院特別研究生。
1950年8月、大阪市立大学法文学部助教授に就任。
1953年10月、教授に昇格。
1962年、学位論文「出典論を中心とする上代文学の考察」を東京大学に提出して文学博士号を取得。
1965年、『上代日本文学と中国文学』により日本学士院賞恩賜賞受賞。
1976年3月、大阪市立大学を定年退職、同大学名誉教授。
1976年4月、龍谷大学文学部教授。
1976年、勲三等旭日中綬章を受章。
専門は上代文学で、同時代の漢文学との比較文学的研究を行った。
主著に『国風暗黒時代の文学』がある。『万葉集』『日本書紀』などの校注を手掛けている。