『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その26 ―― ミヤの躊躇い <女ごころ> ――
【還暦ジジイの解説】
「君に勧む。金縷の衣~」は、古代チャイナの漢詩で、若い男性に対して
「安易な昇進や栄達を望まず、若い時季の蓄積(勉学や経験)が大切だよ」
と説いたもの。(還暦ジジイの解釈)
この詩は女性の作。
大官李錡の妾の杜秋が、お酒を勧めるときに詠って「金縷の曲」とも呼ばれている。
貫一がミヤに対して聴かせたのだから、「安易な富貴に目が眩むんじゃないよ」
と窘める気分だったのだろう。 <詳細はこちら>
【現代口語訳】
前編 第四章 〔その26〕
座布団の上に降ろされた貫一は崩れる体を机で支え、上を向いて小さな声で歌った。
「君に勧む、金縷の衣を惜しむなかれ。君に勧む、須く少年の時を惜しむべし。花有り折るに堪えならば直ちに折る須し。
花無きを待って空しく枝を折ることなかれ」
「貫一さん、どうしてそんなに酔ったの?」
「酔っているのでしょう、僕は。ねえ、ミイさん、非常に酔っているでしょう」
「酔っているわ。苦しいでしょう」
「ああ、苦しいほど酔っている。こんなに酔っているのは大いに訳があるのだ。そうしてまたミイさんなるものが大いに介抱していい訳があるのだ。ミイさん!」
「嫌よ、私は、そんなに酔っていちゃ。普段嫌いなくせになぜそんなに飲んだの。誰に飲まされたの。
端山さんだの、荒尾さんだの、白瀬さんだのがついていたというのに、ひどいわね、こんなに酔わせて。
十時にはきっと帰ると言うから私は待っていたのに、もう十一時過ぎよ」
「本当に待つていてくれたのかい、ミイさん。謝、多謝!もしそれが事実であるならばだ、僕はこのまま死んでも恨みません。
こんなに酔わされたのも、実はそれなのだ」
彼はミヤの手を取って、情に堪えないように握りしめた。
【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第四章 〔その26〕
裀の上に舁下されし貫一は頽るる體を机に支へて、打仰ぎつつ微吟せり。
「君に勸む、金縷の衣を惜む莫れ。君に勸む、須く少年の時を惜むべし。
花有り折るに堪へなば直に折る須し。花無きを待つて空く枝を折ること莫れ。」
「貫一さん、如何して那樣に醉つたの?」
「醉つて居るでせう、僕は。ねえ、宮さん、非常に醉つて居るでせう」
「醉つて居るわ。苦いでせう。」
「然矣、苦いほど醉つて居る。這麼に醉つて居るに就いては大いに譯が有るのだ。
而して又宮さんなるものが大いに介抱して可い譯が有るのだ。宮さん!」
「可厭よ、私は、那樣に醉つて居ちや。不斷嫌ひの癖に何故那樣に飮んだの。誰に飮まされたの。
端山さんだの、荒尾さんだの、白瀬さんだのが附いて居ながら、酷いわね、這麼に醉して。
十時には屹度歸ると云ふから私は待つて居たのに、もう十一時過よ。」
「本當に待つて居てくれたのかい、宮さん。謝、多謝!若其が事實であるならばだ、
僕は此儘死んでも恨みません。這麼に醉されたのも、實は其なのだ。」
彼は宮の手を取りて、情に堪へざる如く握緊めつ。
【意訳】
前編 第四章 〔その26〕 ―― ミヤの躊躇い <女ごころ> ――
座布団の上に降ろされた貫一は崩れる体を机で支え、上を向いて小さな声で歌った。
「君に勧む、金縷の衣を惜しむなかれ。君に勧む、須く少年の時を惜しむべし。花有り折るに堪えならば直ちに折る須し。
花無きを待って空しく枝を折ることなかれ」
「貫一さん、どうしてそんなに酔ったの?」
「ああ、苦しいほど酔っている。こんなに酔っているのは大いに訳があるのだ。それにはミイさんにも責任があるのだ。ミイさん!」
「嫌よ、私は、そんなに酔っていちゃ。普段お酒は嫌いなくせに。誰に飲まされたの?ひどいわね、こんなに酔わせて。
十時にはきっと帰ると言うから私は待っていたのに、もう十一時過ぎよ」
「本当に待っていてくれたのかい、ミイさん。有難う!もしそれが本当なら、僕はこのまま死んでも構わない。
こんなに酔わされたのも、実はそのことなんだ」
彼はミヤの手を取って、情に堪えないように握りしめた。
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇舁下(かきおろ)され ・・・ かついで下ろす。
〇頽(くず)るる體(たい) ・・・ 「頽(くず)おれる」とも読む。気力が抜けて、その場に崩れるようにして倒れたり、座り込んだりする。
〇「君に勧む。金縷の衣を惜しむ莫れ~」 ・・・ 漢詩の「金縷の衣」の引用。<詳細>
〇金縷(きんる)の衣(ころも) ・・・ 黄金の糸で織った高価な衣服。
〇須(すべから)く ・・・ 当然。是非とも。
〇微吟(びぎん) ・・・ 小声で詩歌をうたうこと。
〇謝(しゃ)多謝(たしゃ)! ・・・ 謝は、感謝する。多謝は、厚く礼を述べること。「有難う。本当に有難う」の意味か。