『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その25 ―― ミヤの躊躇い <女ごころ> ――
【還暦ジジイの解説】
「持ち帰ってこれを細君に贈る。なんぞ仁なるや」とは、
口語訳すると、「お土産を持ち帰って奥さんにプレゼントする。なんと思い遣りのあることではないか」となる。
註:仁とは、他人を大切に思う気持ち。習近平さん、プーチンに教えてやって下さい。(笑)
明治の書生(大学生)は日常会話にもよく漢詩・漢文を使った。
酔っぱらった貫一が、巫山戯て詠んだのだ。
【現代口語訳】
前編 第四章 〔その25〕
門の戸を引き開けて、酔った足音が土間に踏み入ったところで、ミヤは何事とも分からずただ慌ててラムプを持って出た。
台所から手伝い女も出てきた。
足の踏みどころもおぼつかないように酔って、帽子は落ちそうなほどに傾き、
ハンカチーフに包んだ折箱を左に下げて、山車人形のようにゆらゆらと立つのは貫一だった。
顔は今にも破れそうなほどに真っ赤に熱して、舌が乾くのに堪えかねてしきりに空唾を吐きつつ、
「遅かったかね。さあ御土産です。帰ってこれを細君に贈る。なんぞ仁なるや」
「まあ、大変酔って! どうしたの」
「酔ってしまった」
「あら、貫一さん、こんな所に寝ちゃ困るわ。さあ、早くお上りなさいよ」
「こう見えても靴が脱げない。ああ酔った」
仰向けに倒れた貫一の脚を掻き抱いて、ミヤはなんとかその靴を取り去った。
「起きる、ああ、今起きる。さあ、起きた。起きたけれど、手を引いてくれなければ僕には歩けませんよ」
ミヤは手伝い女に燈火を持たせ、自らは貫一の手を引こうとすると、彼はよろめきつつ肩にすがってどうしても放さないので、
ミヤはその身一つさへ危いまま、なんとか助けて書斎に入った。
【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第四章 〔その25〕
門の戸引啓けて、醉ひたる足音の土間に踏入りたるに、宮は何事とも分かず唯慌ててラムプを持ちて出でぬ。
臺所より婢も、出合へり。
足の踏所も覺束無げに醉ひて、帽は落ちなんばかりに打傾き、
ハンカチイフに裹たる折を左に挈げて、山車人形のやうに揺々と立てるは貫一なり。
面は今にも破れぬべく紅に熱して、舌の乾くに堪へかねて連に空唾を吐きつつ、
「遲かつたかね。さあ御土産です。還つてこれを細君に遣る。何ぞ仁なるや。」
「まあ、大變醉つて! 如何したの。」
「醉つて了つた」
「あら、貫一さん、這麼所に寐ちや困るわ。さあ、早くお上りなさいよ。」
「恁う見えても靴が脱げない。ああ醉つた。」
仰樣に倒れたる貫一の脚を搔抱きて、宮は辛くも其靴を取去りぬ。
「起きる、ああ、今起きる。さあ、起きた。起きたけれど、手を牽いてくれなければ僕には歩けませんよ。」
宮は婢に燈を把らせ、自らは貫一の手を牽かんとせしに、彼は踉きつつ肩に縋りて遂に放さざりければ、
宮は其の身一つさへ危きに、やうやう扶けて書齋に入りぬ。
【意訳】
前編 第四章 〔その25〕 ―― ミヤの躊躇い <女ごころ> ――
門の戸を引き開けて、酔った足音が土間に踏み入ったところで、ミヤは慌ててランプを持って出た。
台所から下女も出てきた。
貫一は、顔を真っ赤に、しきりに空唾を吐きつつ、千鳥足で、帽子は傾き、折箱を左手に提げて、ゆらゆらと立った。
「遅かったかね。さあ御土産です。帰ってこれを細君に贈る。」
「まあ、大酔して! どうしたの」
「酔ってしまった」
「あら、貫一さん、こんな所に寝ちゃ困るわ。さあ、早くお上りなさいよ」
仰向けに倒れた貫一の脚から、ミヤはなんとか靴を脱がせた。
「起きたけれど、手を引いてくれなければ僕には歩けませんよ」
ミヤは、貫一の手を引いたが、よろめきつつ肩にすがってくるので、却って歩き難くかったが、なんとか書斎に入った。
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇婢(をんな/おんな) ・・・ はしため。下女。召使の女。
〇這麼所(こんなところ) ・・・ こんな所。そんな所。