『靈運に答ふ詩』 (れいうんに こたふ うた)   作:謝宣遠(謝瞻)


【還暦ジジイの説明】


 傲慢な謝霊運からの「(ながあめ)(うれ)ふる詩」に対し、世間通の謝宣遠が答えた詩。

 この一部に「嘉藻」(かそう)という熟語がある。

 意味は、立派な文章、みごとな詩のこと。


【原文】


  答靈運

 夕霽風氣涼 閑房有餘清
 開軒滅華燭 月露皓已盈
 獨夜無物役 寢者亦云寧

 忽獲愁霖唱 懷勞奏所誠
 歎彼行旅艱 深茲眷言情
 伊余雖寡慰 殷憂暫爲輕
 牽率酬嘉藻 長揖愧吾生


【読み下し文】


  靈運に答ふ

 夕に()れて風氣(ふうき)は涼しく、閑房(かんぼう)には餘清(よせい)有り。

 (まど)を開きて華燭(かしょく)()せば、月露(げつろ)(こう)として(すで)()つ。

 獨夜(どくや)には物役(ぶつえき)無く、()ぬれば 亦云(ここ)(やす)し。

 忽ち愁霖(しゅうりん)(しやう)()たるに、(らう)(いだ)ぎて(まこと)なる(ところ)(そう)す。

 ()行旅(こうりょ)(かん)(なげ)き、()眷言(けんげん)(じやう)を深くす。

 ()(われ)(なぐさみ)(すくな)しと(いえど)も、殷憂(いんいう)(しばら)(ため)(かろ)し。

 牽率(けんそつ)して嘉藻(かそう)(むく)い、長揖(ちゃういつ)しで吾生(ごせい)()づ。


【現代語文】


  靈運に答ふ

 夕方雨がはれて気は涼しく、静かな我が(官舎の)室には雨後の清らかさが満ちている。

 窓を開きともし火をすと、もう月露の色は白く光って(月の光に)満ち溢れている。

 こうした夜、私はただ一人俗務に煩わされることもなく、横に寝ていると心安らかである。

 すなわち雨のための旅の難儀さをなげくとともに、今、君の「愁霖の詩」を受け取ったところ、そこには君が苦労を抱き、かつ我に示す厚い真心を述べている。

 則ち雨のため、旅中の難儀さを嘆くとともに、私を親しく思う情が深い。

 我は平生慰め楽しむことも少ないが、君の詩を読んで、心の憂いも暫しは軽くなった。

 君からの便りに心引かれ、君の見事な詩に答えるが、君の妙才に対して真に愧ずかしい。


【参照文献】

 『新釈漢文大系 14 文選(詩篇)上』 内田泉之助・著 網祐次・著 1963(昭和38年)10月30日発行 明治書院


【語彙説明】

〇霽 ・・・ 長雨がはれたこと。

〇燭 ・・・ ろうそくの火。

〇華 ・・・ ローソクの台が美しいことを指す。

〇奏 ・・・ 進める。

〇誠 ・・・ 李普は「成」。五臣注本は「誠」としており、これに従う。

〇眷言 ・・・ 

〇殷憂 ・・・ 李普は、毛詩をひく。痛ましい、深いうれい。

〇長揖 ・・・ 揖は胸のあたりに手をあてて、あいさつする。長は、その手で上から下へ撫で極めること。


【人物プロフィール】

〇謝 宣遠(しゃ せんえん、387年~ 421年) 享年35歳。

  中国東晋・南朝宋の詩人。謝瞻、字は宣遠、謝朗の孫で、陳郡陽夏(河南省太康付近)の人。
  幼いとき孤児となり、叔母の劉氏に撫養せられた。
  六歳でよく文を作る。従奴の混、族弟の霊運とともに盛名があった。

  謝重(東晋の太保謝安の次兄の謝拠の長男の謝朗の子)の三男として生まれた。
  幼くして孤児となり、叔母の劉氏に養育された。
  六歳で作文を得意とし、「紫石英賛」や「果然詩」を作り、当時の才士を驚かせた。

  はじめ桓偉の下で安西参軍となり、楚の秘書郎となった。
  劉氏の弟の劉柳が呉郡に赴任すると、姉たちが劉柳とともに呉郡に赴いたので、謝瞻はやむなく辞職して随行し、劉柳の下で建威長史となった。
  まもなく劉裕の下で鎮軍となった。琅邪王司馬徳文の下で大司馬参軍となり、主簿に転じた。
  安成国相となり、中書侍郎に任じられた。宋が建てられると、謝瞻は中書・黄門侍郎となり、相国従事中郎となった。

  弟の謝晦が南朝宋の右衛将軍として高位にあったため、謝瞻は強すぎる権勢は家門の幸福につながらないと警告し、劉裕にも若い弟を重用しすぎないように、たびたび働きかけた。
  謝瞻は劉裕の命により呉興郡太守に任じられたが、自ら懇請して豫章郡太守となった。
  421年(永初2年)、豫章郡で病にかかり、死去した。


〇謝 霊運(しゃ れいうん、385年~ 433年) 享年48歳。

  中国東晋・南朝宋の詩人・文学者。本籍は陳郡陽夏(現河南省太康)。
  魏晋南北朝時代を代表する詩人で、山水を詠じた詩が名高く、「山水詩」の祖とされる。

  六朝時代を代表する門閥貴族である謝氏の出身で、祖父の謝玄は淝水の戦いで前秦の苻堅の大軍を撃破した東晋の名将である。
  父の謝瑍(謝慶)が早世したこともあって、祖父の爵位である康楽公を継いだため、後世では謝康楽とも呼ばれる。
  南朝斉の謝朓の「小謝」に対し、「大謝」と併称され、後世では族弟の謝恵連と合わせて「三謝」とも呼ばれる。
  聡明で様々な才能に恵まれたが性格は傲慢で、大貴族出身だったことも災いし、後に刑死した。

  再度の帰郷後も山水の中に豪遊し、太守と衝突して騒乱の罪を問われた。
  特赦により臨川郡内史に任ぜられるが、その傲慢な所作を改めなかったことから広州に流刑された。
  その後、武器や兵を募って流刑の道中で脱走を計画したという容疑をかけられ、市において公開処刑の上、死体を晒された。


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