『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その37 ―― ミヤの躊躇い <熱海へ> ――
【現代口語訳】
前編 第六章 (一) 〔その37〕
幼少から親と別れてこの鴫沢の世話になっていて、そこの娘と許嫁・・・似ている、似ている。
しかし、うちの浜路は困る、信乃にばかり気を揉まして、あまり憎いな、薄情なしかただ。
これから手紙を書いて思うさま言ってやろうか。
憎いは憎いけれど病気ではあるし、病人に心配させるのも可哀想だ。
自分はまた神経質にすぎるから、思い過しをしているところも大いにあるのだ。
それにあの人からも普段言われる、けれども自分が思い過しなのか、あの人が情が薄いのかは一つの疑問だ。
時々そう思う事がある、あの人の水臭い仕打があるのは、多少は自分を侮っているのではあるまいか。
自分はこの家の厄介者、あの人は家付きの娘だ。
そこで自ら主と家来というような考えがいくつもあって、・・・いや、それもあの人によく言れる事だ、
それくらいなら初めから許しはしない、好いと思えばこそこういう訳に、・・・
そうだ、そうだ、それを言い出すとひどく怒られるのだ、一番それを怒るよ。
勿論そんな様子が少しでも見えた事は無い。
自分の僻見に過ぎないのだけれども、気が済まないから愚痴も出るのだ。
しかし、もしもあの人の心にそんな根性が爪の垢ほどでも有ったならば、自分は潔くこの縁は切つてしまう。
立派に切つて見せる! 自分は愛情の虜とはなっても、まだ奴隷になる気は無い。
或は、この縁を切ったなら自分はあの人を忘れかねて焦れ死ぬかも知れん。
死なないまでも発狂するかも知れん。かまわん! どうならうと切れてしまおう。切れずに措くものか。
それは自分の僻見で、あの人に限ってはそんな心は微塵も無いのだ。
その点は自分もよく知っている。
けれども情が濃やかでないのは事実だ、冷淡なのは事実だ。
だから、冷淡であるから情が濃やかでないのか。
自分に対する愛情がその冷淡を打壊すほどに熱しないのか。
或は熱することができないのが冷淡の人の愛情であるのか。
これが、研究すべき問題だ」
彼は意に満たぬ事ある毎に、必ずこの問題を研究しないことがなかったが、いまだかつて解釈できなかった。
今日はどう解釈しようとするのだろう。
【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第六章 〔その37〕
幼少から親に別れてこの鴫澤の世話になつてゐて、其處の娘と許嫁・・・似てゐる、似てゐる。
然し内の濱路は困る、信乃にばかり氣を揉して、餘り憎いな、そでない爲方だ。
之から手紙を書いて思ふさま言つて遣らうか。
憎いは憎いけれど病氣ではあるし、病人に心配させるのも可哀さうだ。
自分は又神經質に過るから、思過を爲る所も大きにあるのだ。
其に彼人からも不斷言はれる、けれども自分が思過であるか、あの人が情が薄いのかは一件の疑問だ。
時々然う思ふ事がある、彼人の水臭い仕打の有るのは、多少自分を侮てゐるのではあるまいか。
自分は此家の厄介者、彼人は家附の娘だ。
因で自から主と家來と云ふやうな考が始終有つて、・・・
否、それもあの人に能く言れる事だ、それくらゐなら始から許しはしない、好いと思へばこそ恁云ふ譯に、
・・・ 然うだ、然うだ、其を言出すと太く慍るのだ、一番其を慍るよ。
勿論那樣樣子の些少でも見えた事は無い。
自分の僻見に過ぎんのだけれども、氣が濟まないから愚痴も出るのだ。
然し、若も彼人の心に那樣根性が爪の垢ほどでも有つたらば、自分は潔く此縁は切つて了ふ。
立派に切つて見せる!
自分は愛情の俘とはなつても、未だ奴隷になる氣は無い。
或は此縁を切つたなら自分は彼人を忘れかねて焦死に死ぬかも知れん。
死なんまでも發狂するかも知れん。管はん! 如何ならうと切れて了ふ。切れずに措くものか。
其は自分の僻見で、彼人に限つては那樣心は微塵も無いのだ。
其點は自分も能く知つてゐる。
けれども情が濃でないのは事實だ、冷淡なのは事實だ。
だから、冷淡であるから情が濃でないのか。
自分に對する愛情が其冷淡を打壊すほどに熱しないのか。
或は熱し能はざるのが冷淡の人の愛情であるのか。
これが、研究すべき問題だ。」
彼は意に滿たぬ事ある毎に、必ず此の問題を研究せざるなけれども、未だ曾て解釋し得ざるなりけり。
今日はや如何に解釋せんとすらん。
【意訳】
前編 第六章 〔その37〕 ―― ミヤの躊躇い <熱海へ> ――
あまりに酷い仕打ちだ。手紙を書いて思うさま怒ってやろうか。
自分は神経質にすぎるから、思い過しをしているところも大いにある。
しかし、ミイさんが水臭い仕打をするのは、自分を侮っているのではあるまいか。
あの人は家付きの娘だ。彼女は僕を家来と見下しているんじゃないか。
それなら許しはしないが、彼女にそんな様子が見えた事は無い。
万が一、あの人の心にそんな根性が爪の垢ほどでも有ったならば、自分は潔くこの縁は切ってしまう。
自分は愛情の虜とはなっても、奴隷には成らん!
だが、死なないまでも発狂するかも知れん。
彼女が冷淡なのは事実だ。
これが、問題だ。」
貫一は意に染まぬ事がある度に、必ずこの問題に到達するのだが、未だ嘗て一度も納得する答えを得られなかった。
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇不斷/不断(ふだん) ・・・ 普段とも書く。日常の事。平生(へいぜい)。いつも。
〇慍(おこ)る ・・・ いかる。おこる。腹を立てる。うらむ。憎らしく思う。不満に思う。
〇俘/虜(とりこ) ・・・ とりこ。捕虜。とりこにする。いけどる。捕らえる。
〇管(かま)はん/管(かま)わん ・・・ 「構わん」に同じ。気にしない。
例文1「明日の障りにでもなりやしめえし管あこたああんめえな」<『土』長塚節・著>
例文2「管はんで置くと、好い気に為るだア」<『重右衛門の最後』田山花袋・著>
例文3「管わんで下さいと云ったら管わんで下さい」<『六号室』チェーホフ・著>
例文4「私なら弁護を頼まれたってなんだって管やしません」<『義血俠血』泉鏡花・著>
例文5「管はず踏込むで、踏躙ると」<『解剖室』三島霜川・著>
〇意(こころ)に滿(み)たぬ/意(い)に満(み)たぬ ・・・ 気に入らない。満足しない。