『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その36 ―― ミヤの躊躇い <熱海へ> ――
【現代口語訳】
前編 第六章 〔その36〕
「本当に水臭いな。いくら急いで出かけたって、何とか一言ぐらい言い残して行きそうなものじゃないか。
ちょっとそこへ行ったのじゃなし、四五日でも旅だ。
第一言い残す、言い残さないよりは、湯治に行くなら行くと、初めに話がありそうなものだ。
急に思いついた? 急に思いついたって、急に行かなければならない所じゃあるまい。
俺の帰るのを待って、話をして、明日行くというのが順序だろう。
四五日ぐらいの別れには顔を見ずに行っても、あの人は平気なのかしらん。
女という者は一体男よりは情が濃やかであるべきなのだ。
それが濃やかでないとすれば、愛していないと考えるよりほかは無い。
まさかあの人が愛していないとは考えられない。
また万々そんな事は無い。
けれども十分に愛しているといふほど濃やかではないな。
もともとあの人の性質は冷淡さ。それだからいわゆる『娘らしい』ところがあまり無い。
自分の思うように情が濃やかでないのもその所為か知れない。
子供の頃からそういう傾向はあったけれど、今のやうに甚だしくはなかったように思えるけどな。
子供の頃にそうであったなら、今ならなおさらでなければならないのだ。それを考えると疑うよ、疑わざるを得ない!
それに比べて自分だ、自分の愛している度は実に非常なもの、ほとんど・・・ほとんどではない、全くだ、全く溺ているのだ。
自分でもどうしてこんなだらうと思うほど溺れている!
これ程自分の思っているのに対しても、も少し情が篤くなければならんのだ。
ときどき実に水臭い事がある。今日の事なども随分ひどい話だ。
これが互に愛している仲なかの仕草だろうか。
深く愛しているだけにこういふ事をされると本当に憎い。
小説的かも知れないけれど、八犬伝はの浜路だ、信乃が明朝は発って行ってしまうというので、
親の目を忍んで夜更に逢いに来る、あの情合でなければならない。
いや、妙だ! 自分の身の上も信乃に似ている。
【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第六章 〔その36〕
「實に水臭いな。幾許急いで出掛けたつて、何とか一言ぐらゐ言遺て行きさうなものぢやないか。
一寸其處へ行つたのぢやなし、四五日でも旅だ。第一言遺く、言遺かないよりは、湯治に行くなら行くと、始に話が有りさうなものだ。
急に思着いた?急に思着いたつて、急に行かなければならん所ぢやあるまい。
俺の歸るのを待つて、話をして、明日行くと云ふのが順序だらう。
四五日ぐらゐの離別には顔を見ずに行つても、あの人は平氣なのか知らん。
女と云ふ者は一體男よりは情が濃であるべきなのだ。
それが濃でないと爲れば、愛して居らんと考へるより外は無い。
豈にあの人が愛して居らんとは考へられん。
又萬々那樣事は無い。
けれども十分に愛してをると云ふほど濃ではないな。
元來彼人の性質は冷淡さ。
それだから所謂『娘らしい』所が餘り無い。
自分の思ふやうに情が濃でないのも其所為か知らんて。
子供の時分から成程然う云ふ傾向は有つてゐたけれど、今のやうに太甚くはなかつたやうに考へるがな。
子供の時分に然うであつたなら、今ぢや猶更でなければならんのだ。
其を考へると疑ふよ、疑はざるを得ない!
其に引替へて自分だ、自分の愛して居る度は實に非常なもの、殆ど・・・殆どではない、全くだ、全く溺てゐるのだ。
自分で如何うして這麼だらうと思ふほど溺れてゐる!
是程自分の思つてゐるのに對しても、最少し情が篤くなければならんのだ。
或時などは實に水臭い事がある。今日の事なども随分酷い話だ。
これが互に愛してゐる間の仕草だらうか。
深く愛してゐる丈に恁云ふ事を爲れると實に憎い。
小説的かも知れんけれど、八犬傳はの濱路だ、信乃が明朝は立つて了ふと云ふ
ので、
親の目を忍んで夜更に逢ひに來る、あの情合でなければならない。
いや、妙だ! 自分の身の上も信乃に似てゐる。
【意訳】
前編 第六章 〔その36〕 ―― ミヤの躊躇い <熱海へ> ――
「本当に水臭いな。いくら急いで出かけるしたって、一言ぐらい言い残して行きそうなものじゃないか。
大体から、湯治に行くなら行くと、初めに話がありそうなものだ。
僕の帰るのを待って、話をして、明日行くというのが順序だろう。
四五日ぐらい顔を見ずにいても、平気なのかしらん。
そもそも、女は男よりは情が濃やかなのに、そうじゃあないとすれば、愛していないと考えるよりほかは無い。
しかし、まさかあの人が僕のことを愛していないとは考えられない。
けれども僕以上に愛していると言うほどでもない。
まあ、たしかにあの人は、子供の頃から冷淡だったけど、今ほどではなかったように思えるなあ。
それを考えると疑わざるを得ない!
それに比べて僕の愛情の深さはどうだ。全く彼女に溺ている。
これ程自分の思っているのに対して、もう少し情が篤くなってもいいじゃないか!
実に水臭い!これで互に愛していると言えるだろうか。
今日みたいな事をされると、本当に憎い。
八犬伝の浜路は、信乃のところへ親の目を忍んで夜更に逢いに来た。
あの情合でなければならない。
いや、妙だ! 自分の身の上も信乃に似ている。(なのに、何故、彼女は逢いに来ないのだ?)
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇豈(まさか) ・・・ 意外にも。よもや。
〇万々(ばんばん) ・・・ 万が一にも。決して。
〇仕草/仕種(しぐさ) ・・・ 動作や表情。所作。