『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その38 ―― ミヤの躊躇い <熱海へ> ――
【現代口語訳】
前編 第六章 (二) 〔その38〕
翌日案の定、熱海から便はあったが、僅かに一枚の葉書で途中の無事と宿とを通知するのに過ぎなかった。
宛名は隆三と貫一とを並べて、ミヤの筆跡だった。
貫一は読み終わると同時に引裂いて捨ててしまった。
ミヤがいればどうとでも言い訳できるだろう。
彼女が直に説明すれば、どんなに腹が立っていても貫一の心が解けないことはなかった。
ミヤの前では常に彼は怒りも、恨みも、憂いも忘れた。
今は懐かしい顔を見ることのできない失望に加えて、この不平に遭って、しかも言い訳する者がいないので、彼の怒りは野火が飽くことを知らず焼け広がるようなものだった。
この夕べ隆三は彼に食後の茶を薦めた。
一人佗しいので、留め話でもしようとしてのことだった。
しかし貫一が精気を失った顔をして、絶えず思い上がらぬ方に向っていく様子なのを、
「お前どうしなすったか。うむ、元気が無いの」
「はあ、少し胸が痛みますので」
「それはよくない。ひどく痛みでもするかな」
「いえ、なに、もう宜しいのでございます」
「それぢや茶はいくまい」
「頂戴します」
【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第六章 (二) 〔その38〕
翌日果して熱海より便はありけれど、僅に一枚の端書をもて途中の無事と宿とを通知せるに過ぎざりき。
宛名は隆三と貫一とを並べて、宮の手蹟なり。
貫一は読了ると齊しく片々に引裂きて捨てゝけり。
宮の在らば如何にとも言解くなるべし。
彼の親く言解かば、如何に打腹立ちたりとも貫一の心の釋けざることはあらじ。
宮の前には常に彼は慍をも、恨をも、憂をも忘るゝなり。
今は可懐き顔を見る能はざる失望に加ふるに、此不平に遭ひて、而も言解く者のあらざれば、彼の慍は野火の飽くこと知らで燎くやうなり。
此夕隆三は彼に食後の茶を薦めぬ。
一人佗しければ留めて物語はんとてなるべし。
然れども貫一の屈托顔して絶えず思の非ぬ方かたに馳する氣色なるを、
「お前如何ぞ為なすつたか。うむ、元氣が無いの。」
「はあ、少し胸が痛みますので。」
「それは好くない。劇く痛みでもするかな。」
「いえ、何爲、もう宜いのでございます。」
「それぢや茶は可くまい。」
「頂戴します。」
【意訳】
前編 第六章 (二) 〔その38〕 ―― ミヤの躊躇い <熱海へ> ――
翌日、熱海より便はあったが、一枚の葉書で無事と宿とを通知するだけだった。
筆跡はミヤで、宛名は隆三と貫一を並べてあったが、読み終わると破いて捨てた。
彼女が直に説明すれば、貫一の腹立ちも解けた。
今はミヤの顔を見ることができず、彼の怒りは怒りが増した。
この夕べ隆三は彼に食後の茶を薦めた。
「お前どうしなすったか。うむ、元気が無いの」
「はあ、少し胸が痛みますので」
「それはよくない。ひどく痛みでもするかな」
「いえ、なに、もう宜しいのでございます」
「それぢや茶はいくまい」
「頂戴します」
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇手蹟/手跡(しゆせき/しゅせき) ・・・ 文字の書きぶり。筆跡。
〇齊/斉(ひと)しく ・・・ 全体的に一様であるさま。どれも同じであるさま。
〇釋(と)く ・・・ とく。ときあかす。
〇慍(いかり) ・・・ いきどおる。いかる。