『金色夜叉』(こんじきやしゃ)  その35  ―― ミヤの躊躇(ためら)い <熱海へ> ――


 【現代口語訳】

  前編 第六章   〔その35〕


 大風の()いだ後に一軒だけぽつんと家が立っているかのように、(わび)しげに留守番をする(あるじ)隆三(りゅうぞう)(ひと)碁盤(ごばん)に向って碁経(きけい)を開いていた。

 年齢はまだ六十に遠いが、頭は(おびただ)しい白髪で、長く伸びた(ひげ)も六分は白く、姿は()せていたがまだ老いの衰えも見せず、眉目温厚で落ち着いた風情をしていた。

 やがて帰って来た貫一は二人のいないのを不思議がって主に訊ねた。

 彼は静かに長い髯を撫でて片笑みつつ、

 「二人はの、今朝新聞を見ると急に思いついて、熱海へ出かけたよ。何でも昨日医者が湯治が良いと言ってしきりに勧めたらしいのだ。

いや、もう急の思いつきで、足元から鳥の起つやうな騒ぎをして、十二時三十分の汽車で。ああ、独りで寂しいところ、まあ茶でも()れよう」

 貫一はあるはずがない事のように疑った。

 「はあ、それは。何だか夢のやうですな」

 「はあ、わしもそんな塩梅(あんばい)で」

 「しかし、湯治は良いでしょう。何日ほど逗留のおつもりで?」

 「まあどんなだか四五日と言うので、ほんの着の身着のままで出かけたのだが、なあに直に飽きてしまって、

四五日も居られるものか、出養生より内養生の方が楽だ。何か旨い物でも食べようじゃあないか、二人で、のう」

 貫一は着替えのために書斎に戻った。

 ミヤの残した手紙でもないかと思い、探したが見当たらなかった。

 彼女の居間を尋ねても無かった。

 急いで出発したのだからそうもなるだろう、明日は必ず便りがあるに違いないと思いかえしたが、さすがに心は楽しくなかった。

 彼が六時間学校にいて帰って来たのは、心が痩せるほど美しい面影に飢えて帰って来たのである。

 彼は空しく飢えた心を抱いて慰めにもならない机に向った。



 【原文】  註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。

  前編 第六章   〔その35〕


 大風の()ぎたる(あと)孤屋(ひとつや)の立てるが如く、(わび)しげに留守(るす)せる(あるじ)の隆三は(ひと)碁盤(ごばん)に向ひて碁經(きけい)(ひら)()たり。

 (よはひ)()ほ六十に遠けれど、(かしら)(おびただし)白髪(しらが)にて、長く()ひたる(ひげ)なども六分は白く、(かたち)(やせ)たれど(いま)(おい)(おとろへ)も見えず、眉目溫厚(びもくおんこう)にして(すこぶ)古井波無(こせいなみな)(ふう)あり。

 (やが)歸來(かへりき)にける貫一は二人の()らざるを(あやし)みて主に(たづ)ねぬ。

 彼は(しづか)に長き髯を()でて片笑(かたゑ)つつ、

 「二人はの、今朝(けさ)新聞を見ると急に思着(おもひつ)いて、熱海(あたみ)へ出掛けたよ。

 何でも昨日醫者(いしや)湯治(たうぢ)が良いと言うて(しきり)(すす)めたらしいのだ。

 いや、もう急の思着(おもひつき)で、脚下(あしもと)から鳥の()つやうな(さわぎ)をして、十二時(さんじツ)の滊車で。

 ああ、獨りで寂い所、まあ茶でも()れやう。」


 貫一は有る()からざる事のやうに疑へり。

 「はあ、それは。何だか夢のやうですな。」

 「はあ、(わし)那樣鹽梅(そんなあんばい)で。」

 「(しか)し、湯治は良いでございませう。幾日(いくか)ほど逗留(とうりう)のお心算(つもり)で?」

 「まあ甚麽(どんな)だか四五日と云ふので、(ほん)の着の(まま)で出掛けたのだが、何爲(なあに)(ぢき)に飽きて(しま)うて、四五日も居られるものか、

出養生(でやうじやう)より内養生(うちやうじやう)の方が(らく)だ。何か(うま)い物でも食べやうぢやないか、二人で、なう。」


 貫一は着更(きか)へんとて書齋(しよさい)(かへ)りぬ。

 宮の(のこ)したる筆の(あと)などあらんかと思ひて、求めけれども見えず。

 彼の居間をも(たづ)ねけれど在らず。

 急ぎ出でしなれば()もあるべし、明日は必ず便(たより)あらんと思飜(おもひかへ)せしが、有繋(さすが)心樂(こころたのし)まざりき。

 彼の六時間學校に在りて歸來(かへりきた)れるは、心の()するばかり(うつくし)(おもかげ)()ゑて歸來(かえりきた)れるなり。

 彼は(むなし)()ゑたる心を(いだ)きて(なぐさ)むべくもあらぬ机に向へり。


 【意訳】

  前編 第六章   〔その35〕   ―― ミヤの躊躇(ためら)い <熱海へ> ――


 (わび)しげに留守番をする主の隆三は独り碁盤に向って碁の本を開いていた。

 年齢はまだ六十に遠いが、白髪で、髯も六分は白く、痩身だがまだまだ元気で、眉目温厚、落ち着いていた。


 やがて帰って来た貫一は、二人のいないのを不思議がって主に訊ねた。

 主は静かに微笑みながら、

 「二人はの、今朝新聞を見ると急に思いついて、熱海へ出かけたよ。何でも昨日医者が湯治が良いと言ってしきりに勧めたらしいのだ。

いや、もう急いで出掛けたよ。ああ、独りで寂しいところ、まあ茶でも淹れよう」

 貫一は不審に思った。

 「はあ、それは。何だか夢のやうですね。しかし、湯治は良いでしょう。何日ほど逗留のおつもりで?」

 「着の身着のままで出かけたのだから、直に飽きてしまって、四五日も居られるものか。まあ、何か旨い物でも二人で食べようじゃあないか。のう」

 貫一は着替えのために書斎に戻った。

 ミヤの残した手紙でもないかと、自分の部屋も、彼女の居間も探したが見当たらなかった。

 急いで出発したのだから仕方ないか、でも、明日は便りがあるに違いないと思い直したが、さすがに心は楽しくなかった。

 貫一が、()いて帰宅したのは、彼女の美しい面影に会えると思ったからである。

 彼は空しく心を抱いて机に向った。


 【語彙解説】  註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。

〇碁經/碁経(きけい/ごきょう) ・・・ 碁の書物。棋書の古語。

〇髯(ひげ) ・・・ ほおに生えているひげ。髭は「口の上のひげ」。鬚は「あごひげ」。

〇眉目温厚(びもくおんこう) ・・・ 温厚な容姿のこと。見た目が優しく落ち着いていること。

〇古井波無(こせいなみな)き ・・・ 四字熟語「古井無波」(こせいむは)の訓読み。水の枯れた古井戸には、水が無いから波も立たぬ。肝っ魂がしっかりしていて心が動揺しないこと。

〇片笑(かたゑ)み ・・・ 一方の頰に笑みを浮かべる。ちょっと笑う。微笑をもらす。

〇卅分(さんじツぷん/さんじゅっぷん) ・・・ 30分のこと。「卅」は「十」を三つ合わせた形で「三十」の意味。異体字「丗」もある。

〇那樣/那様(そんな) ・・・ そんな。そのような。

〇鹽梅/塩梅/按配(あんばい) ・・・ 1.料理の味加減。 2.物事のぐあい・ようす。

〇甚麽(どんな) ・・・ はっきりしないさま。

〇何爲/何為(なあに) ・・・ 軽く否定する気持ちを表す。

〇思翻(おもひかへ)せし ・・・ 「思い返す」の意味。

〇有繋(さすが) ・・・ 一応は認めながら、一方でそれと相反する感情を抱くさま。

〇俤(おもかげ) ・・・ 面影と同じ。


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