『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その34 ―― ミヤの躊躇い <熱海へ> ――
【現代口語訳】
前編 第六章 〔その34〕
その翌々日に、ミヤは貫一に勧められて医師の診察を受けに行き、胃病ということで一瓶の水薬を与へられた。
貫一は本当に胃病なのだと思った。
患者は全くそんな事はないと思いつつも、その薬を服用していた。
懊悩し、憂鬱に耐えられないような彼女の容体はいくばくの変化も見えなかったが、
その心に水と火のようなものがあって、相剋する苦痛は、ますます募って止むことがなかった。
貫一は彼女の憎からぬ人ではなかっただろうか。
不思議なことに、彼女はこの日頃そのように憎からぬ人を見ることを恐れていた。
見なければさすがに見たいと思いながら、顔を合わせれば冷や汗の出るような怖れを生じていた。
彼の情有る言葉を聞けば、身を切られるような感じがした。
ミヤは彼の優しい心根を見ることを恐れていた。
ミヤの気分がすぐれなくなってから、彼女に対する貫一の優しさはその平生に一層を加へたので、
彼女は死を求めても得られず、生を求めても得られないように、悩み苦しんで本当に耐えられない限界に至った。
遂に彼女はこの苦しみを両親に訴えたのだろう、ある日母と娘とは急に身支度して、忙しく車に乗って外出した。
彼女らは小さくない一個の旅鞄を携えていた。
【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第六章 〔その34〕
其翌々日なりき、宮は貫一に勸められて行きて醫の診察を受けしに、胃病なりとて一瓶の水藥を與へられぬ。
貫一は信に胃病なるべしと思へり。
患者は必ず然る事あらじと思ひつつも其藥を服したり。
懊悩として憂に堪へざらんやうなる彼の容體に幾許の變も見えざりけれど、
其心に水と火の如きものありて相剋する苦痛は、益募りて止ざるなり。
貫一は彼の憎からぬ人ならずや。
怪むべし、彼は此日頃然しも憎からぬ人を見ることを懼れぬ。
見ねば有繋に見まほしく思ひながら、面を合すれば冷汗も出づべき恐怖を生ずるなり。
彼の情有る言ばを聞けば、身をも斫らるるやうに覺ゆるなり。
宮は彼の優き心根を見ることを恐れたり。
宮が心地勝れずなりてより、彼に對する貫一の優しさは其平生に一層を加へたれば、彼は死を覓むれども得ず、
生を求むれども得ざらんやうに、悩亂して幾と其の堪ふべからざる限に至りぬ。
遂に彼は此苦を兩親に訴へしにやあらん、一日母と娘とは遽に身支度して、
忙々く車に乘りて出でぬ。
彼等は小からぬ一個の旅鞄を携へたり。
【意訳】
前編 第六章 〔その34〕 ―― ミヤの躊躇い <熱海へ> ――
その翌々日に、ミヤは貫一に勧められて医者へ行き、胃病ということで薬を与へられた。
貫一は本当に胃病なのだと思った。
当の彼女は全くそんな事はないと思いつつも、その薬を服用していた。
当然、彼女の容体は少しも良くならなかったが、むしろ、心の苦痛は、ますます募っていた。
彼女は貫一を嫌いではなかったが、不思議なことに、貫一を見ることを恐れていた。
見なければ逆に見たいと思い、顔を合わせれば冷や汗が出るような怖れを生じていた。
彼の情有る言葉を聞くと、身を切られるような感じがするからだ。
ミヤは彼の優しい心根を見ることを恐れていたのだ。
ミヤの気分がすぐれなくなってから、貫一はなお一層優しくなったので、
彼女は死を求めても死ねず、生を求めても得られないように、悩み苦しんで限界に至った。
遂に彼女はこの苦しみを両親に訴えたのだろう。
ある日、母と娘とは急に身支度して、小さくない旅鞄を携えて忙しく車に乗って出て行った。
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇相剋(あいこく/そうこく) ・・・ 1.対立・矛盾する二つのものが互いに相手に勝とうと争うこと。
2.五行説で、木は土に、土は水に、水は火に、火に金に、金は木にそれぞれ剋つとされること。五行相克。
〇有繋(さすが) ・・・ 一応は認めながら、一方でそれと相反する感情を抱くさま。
〇覓む/尋む/求む(もと‐ぬ) ・・・ もとめる。さがす。さがしもとめる。
〇幾(ほとほ)と ・・・ まったく。つくづく。
〇一日(あるひ) ・・・ その日が確かに決めがたい場合や、その日をわざと言わないようにする場合にいう不特定の日のこと。