『金色夜叉』(こんじきやしゃ)  その33  ―― ミヤの躊躇(ためら)い <密談> ――


 【現代口語訳】

  前編 第五章   〔その33〕


 「(楽しみは)きっと無いのだね」

 貫一は()みを含んでいた。けれども苦しげに見えていた。

 「無い?」

 ミヤの肩先を(とら)えて貫一はこちらに向けようとすると、なすままに彼女は(ゆる)く身を(めぐら)したが、顔だけは恥ずかしいそうに(そむ)けていた。

 「さあ、無いのか、あるのかよ」

 肩に懸けた手を放さずにしきりに(ゆす)られるのを、ミヤは鉄の(つち)(たた)かれるように感じて、冷たい汗がひとしきり流れ出た。

 「これはけしからん!」

 ミヤは疑いながら彼の顔色を(うかが)った。いつものようにふざけているのだった。

 その顔は(やわら)いで一点の怒気もなく、むしろ口元には微笑(ほほえみ)をたたえていた。

 「僕などは一つ大きな大きな楽しみがあるので、世の中が愉快で愉快でたまらんの。一日が経って行くのが惜くて惜くてね。

僕は世の中がつまらない為にその楽を作ったのではなくて、その楽しみの為にこの世の中に生きているのだ。

もしこの世の中からその楽しみを取り去ったら、世の中は無い! 貫一といふ者も無い! 

僕はその楽しみと生死(しょうじ)をともにするのだ。ミイさん、(うらや)ましいだろう」

 ミヤはたちまち全身の血の(こお)るような寒さに()えかねて打ち(ふる)えたが、この心の中を悟られてはならないと思い、弱る自分の力を励まして、

 「羨ましいわ」

 「羨ましければ、お前さんの事だから分けてあげよう」

 「どうぞ」

 「ええ、みんなやってしまえ!」

 彼がオーバーコートのポケットから一袋のボンボンを取り出して火燵の上に置くと、はずみで袋の口は弛んで、

紅白の玉はさらさらと乱れ出た。これはミヤの最も好きな菓子だった。


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 【原文】  註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。

  前編 第五章   〔その33〕


 「屹度(きツと)無いのだね。」

 彼は(ゑみ)を含みぬ。()れども苦しげに見えたり。

 「無い?」

 宮の肩頭(かたさき)()りて貫一は此方(こなた)引向(ひきむ)けんとすれば、()すままに彼は(ゆる)く身を(めぐら)したれど、顔のみは可羞(はぢがまし)(そむ)けて()たり。

 「さあ、無いのか、有るのかよ。」

 肩に()けたる手をば(はな)さで(しきり)(ゆすら)るるを、宮は(くろがね)(つち)もて撃懲(うちこら)さるるやうに(おぼ)えて、(やす)き心もあらず。

 (ひややか)なる汗は又一時流出(またひとしきりながれい)でぬ。

 「(これ)()しからん!」

 宮は(あやぶ)みつつ彼の顔色を(うかが)ひぬ。

 常の如く(たはむ)るるなるべし。

 其面(そのおもて)(やはら)ぎて一點(いツてん)怒氣(どき)だにあらず、(むし)唇頭(くちもと)には(ゑみ)(つつ)めるなり。

 「僕などは一件(ひとつ)大きな大きな(たのしみ)があるので、世の中が愉快(ゆくわい)で愉快で(たま)らんの。

一日が()つて()くのが(をし)くて惜くてね。

僕は世の中が滿(つま)らない(ため)其樂(そのたのしみ)(こしら)へたのではなくて、其樂(そのたのしみ)の為に此世(このよ)の中に()きて()るのだ。

()此世(このよ)の中から其樂(そのたのしみ)取去(とりさ)つたら、世の中は無い! 貫一といふ者も無い! 僕は其樂と生死(しやうし)(とも)にするのだ。

(ミイ)さん、可羨(うらやまし)いだらう。」

 宮は(たちま)ち全身の血の(こほ)れるばかりの寒さに()へかねて打顫(うちふる)ひしが、此の心の(うち)(さと)られじと思へば、弱る力を(はげま)して、

 「可羨(うらやまし)いわ。」

 「可羨ければ、お前さんの事だから()けてあげやう。」

 「何卒(どうぞ)。」

 「ええ悉皆遣(みんなや)つて(しま)へ!」

 彼は外套(オバコオト)衣兜(かくし)より一袋(ひとふくろ)ボンボン取出(とりいだ)して火燵(こたつ)の上に置けば、餘力(はずみ)に袋の口は(ゆる)みて、紅白の玉は珊々(さらさら)亂出(みだれい)でぬ。

 ()宮の最も好める菓子なり。


 【意訳】

  前編 第五章   〔その33〕   ―― ミヤの躊躇(ためら)い <密談> ――


 「(楽しみが)無いんだね?」

 貫一は笑みを含んでいたが、ミヤがなお苦しげに見えた。

 ミヤの肩先を掴んでこちらに向けようとすると、彼女はなすままに身を(めぐら)したが、顔だけは(そむ)けていた。

 「さあ、無いのか、あるのか」

 貫一に肩を揺られながら()かれて、ミヤは(つち)で叩かれるように感じ、冷汗(ひやあせ)が流れた。

 「これはけしからん!」

 と貫一が言うので、彼を見ると、いつものようにふざけて、微笑(ほほえ)んでいた。

 「僕などは一つ大きな楽しみがあるので、世の中が愉快でたまらん。僕は、その楽しみの為にこの世の中に生きているのだ。

もし、その楽しみが無くなったら、貫一も無い!ミイさん、羨ましいだろう?」

 ミヤは、全身の血が凍るような寒さに震えたが、この心の中を悟られてはならないと思い、

 「羨ましいわ」と答えた。

 「羨ましければ、お前さんの事だから分けてあげよう。えい!みんなやってしまえ!」

 彼がポケットから一袋のボンボンを取り出して火燵の上に置くと、袋の口から紅白の玉がさらさらと乱れ出た。

 これはミヤの大好きな菓子だった。


 【語彙解説】  註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。


〇滿(つま)らない ・・・ つまらない。面白みに欠ける。

〇打顫(うちふる)ひし ・・・ 

〇衣兜(かくし) ・・・ ポケット。

〇ボンボン ・・・ ボンボン菓子。砂糖から作られた殻で具を包んだ菓子。

〇珊々(さらさら) ・・・ 本来「さんさん」と読み、おび玉の鳴る音の形容。「さらさら」の当て字。

〇這(こ)は ・・・ 「これは」と同じ。


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