『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その32 ―― ミヤの躊躇い <密談> ――
【現代口語訳】
前編 第五章 〔その32〕
目を閉じて聴きいった貫一は静かに瞼を開くとともに眉を顰て、
「それは病気だ!」
ミヤは打ち萎れて頭を垂れた。
「しかし心配する事は無いさ。気にしてはいけないよ。いいかい」
「ええ、心配しはしません」
いつになく沈んだその声の寂しさを、どのように貫一は聴いただろうか。
「それは病気の所為だ、脳でもわるいのだよ。そんな事を考えた日には、一日だって笑って暮せる日はありはしない。
もとより世の中と言うものは、そう面白いものじゃないので、また人の身の上ほどわからないものはない。
それはそれに違い無いのだけれど、皆が皆、そんな了見を起してごらん、世界中お寺ばかりになってしまう。
儚いのが世の中と覚悟した上で、その儚い、つまらない中でせめて楽しみを求めようとして、つまり我々が働いているのだ。
考へて鬱いだところで、つまらない世の中に儚い人間と生れて来た以上は、どうも今更仕方が無いじゃないか。
だから、つまらない世の中をいくらか面白く暮そうと考えるより外は無いのさ。
面白く暮すには、何か楽しみが無ければならない。
一つこうと言う楽しみがあったら決して世の中はつまらないものではないよ。
ミイさんはそれでは楽しみと言うものが無いのだね。この楽しみがあればこそ生きていると思ふ程の楽しみは無いのだね」
ミヤは美しい目を挙げて、求めるところがあるかのように、そっと男の顔を見ていた。
【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第五章 〔その32〕
目を閉ぢて聽居し貫一は徐に眶を開くと與に眉を顰めて、
「それは病氣だ!」
宮は打萎れて頭を垂れぬ。
「然し心配する事は無いさ。氣に爲ては可かんよ。可いかい」
「ええ、心配しはしません」
異く沈みたる其聲の寂しさを、如何に貫一は聽きたりしぞ。
「それは病氣の所爲だ、脳でも不良のだよ。那樣事を考へた日には、一日だつて笑つて暮せる日は有りはしない。
固より世の中と云ふものは然う面白い義のものぢやないので、又人の身の上ほど解らないものは無い。
其は其れに違無いのだけれど、衆が皆那樣了簡を起して御覽な、世界中御寺ばかりになつて了ふ。
儚いのが世の中と覺悟した上で、その儚い、滿らない中で切ては樂を求めやうとして、究竟我々が働いて居るのだ。
考へて鬱いだところで、滿らない世の中に儚い人間と生れて來た以上は、どうも今更爲方が無いぢやないか。
だから、滿らない世の中を幾分か面白く暮さうと考へるより外は無いのさ。
面白く暮すには、何か樂が無ければならない。
一事恁うと云ふ樂があつたら決して世の中は滿らんものではないよ。
宮さんはそれでは樂と云ふものが無いのだね。此樂があればこそ生きてゐると思ふ程の樂は無いのだね」
宮は美き目を擧げて、求むる所あるが如く偸に男の顔を見たり。
【意訳】
前編 第五章 〔その32〕 ―― ミヤの躊躇い <密談> ――
目を閉じて聴きいった貫一は静かに
「それは病気だ!」
ミヤは打ち萎れて頭を垂れた。
「それは病気の所為だよ。そんな事を考えてたら、笑って暮せる日はありはしない。
世の中は、そう面白いものじゃない。また人の身の上ほどわからないものはない。
儚いのが世の中と覚悟した上で、せめて楽しみを求めて、我々が働いているのだ。
考へて鬱いだところで、どうも今更仕方が無いじゃないか。
だから、つまらない世の中をいくらか面白く暮そうと考えるより外は無いのさ。
面白く暮すには、何か楽しみが無ければならない。ミイさんには、楽しみと言うものが無いのだね。」
ミヤは美しい目を挙げて、求めるかのように、そっと貫一の顔を見ていた。
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇義(わけ) ・・・ わけ。意味。
〇滿(つま)らない ・・・ つまらない。面白みに欠ける。
〇偸(ひそか)に ・・・ こっそり。