『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その31 ―― ミヤの躊躇い <密談> ――
【還暦ジジイの説明】
貫一は、憂鬱いでいるミヤを見て訝しみ、自分が慕うほど、ミヤは慕ってくれていないことを察している。
私なら、諦めるだろうか?
否、黙って去って行くだろうか?
或いは、笑顔で送り出してやるだろうか?
それは無い、それは無いな。
それとも、強引に肉体関係を迫るかなあ(笑)
【現代口語訳】
前編 第五章 〔その31〕
ミヤは自分の顔が頻りに眺められるのをきまり悪がって、
「何をそんなに見るの、嫌、私は」
しかし、彼はなお目を離さず、ミヤはわざと背を向け、布入れの中の探しものを始めた。
「ミイさん、お前さんどうしたの。ええ、どこか悪いのかい?」
「何ともないのよ。なぜ?」
こう言いながら益々探しものの手が早まった。
貫一は帽子を被ったまま火燵に片肱を掛けて、斜に彼女の顔を見やりつつ、
「だから僕は始終水臭いと言うんだ。そう言へば、直ぐに疑り深いの、神経質だのと言うけれど、そうに違いないじゃないか」
「だつて何ともありもしないものを・・・」
「何ともないものが、ぼんやり考えたり、溜息を吐いたりして鬱いでいるものか。
僕はさっきから唐紙の外で立って見ていたんだよ。病気かい?心配でもあるのかい?言って聞してもいいじゃあないか」
ミヤは言う言葉が見つからず、ただ膝の上の紅絹を手でまさぐるだけだった。
「病気なのかい?」
彼女は僅かに頭を振った。
「それじゃ心配でもあるのかい?」
彼女はなお頭を振るので、
「じゃあどうしたと言うのさ」
ミヤはただ胸の中で車輪が回るように感じるだけで、誠にも偽りにも言葉を発するすべを思いつかなかった。
彼女は犯した罪の、ついに隠し通すことができないのを悟ったような怖れのために、心が慄いた。
どのように答えようかとさえ迷うのに、傍らには貫一が更になじるかのように待っているのを思うと、身体は搾られるように迫り来る息の隙に、
何とも言い表せない冷たい汗が流れ流れた。
「それじゃあどうしたのだと言うのに」
貫一の口調はだんだん苛立ってきた。
彼女が言わないのを怪しいと思ったからだ。ミヤは驚いていい加減に話し始めた。
「どうしたのだか私にも解らないけれど、・・・私はこの二三日どうしたのだか・・・変に色々な事を考えて、
何だか世の中がつまらなくなって、ただ悲しくなって来るのよ」
あきれた貫一はまばたきもせずに耳を傾けた。
「人間というものは今日こうして生きていても、いつ死んでしまうか解らないのね。こうしていれば、
楽しみな事もある代りに辛い事や、悲しい事や、苦しい事なんぞがあって、二つ良い事は無し、
考れば考るほど私は世の中が心細いわ。
ふっとそう思いだしたら、毎日そんな事ばかり考えて、嫌な心地になって、自分でもどうかしたのかしらんと思うけれど、
私病気のように見えて?」
【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第五章 〔その31〕
宮はおのれの顔の頻に眺めらるるを眩ゆがりて、
「何を那樣に視るの、可厭、私は。」
然れども彼は猶目を放たず、宮は故と打背きて、裁片疊の内を撈せり。
「宮さん、お前さん如何したの。ええ、何處か不快のかい。」
「何ともないのよ。何故?」
恁く言ひつつ益急に撈せり。
貫一は帽を冠りたるまま火燵に片肱掛けて、斜に彼の顔を見遣りつつ、
「だから僕は始終水臭いと言ふんだ。然う言へば、直に疑深いの、神經質だのと言ふけれど、それに違無いぢやないか。」
「だつて何ともありもしないものを・・・。」
「何ともないものが、惘然考へたり、太息を吐いたりして鬱いで居るものか。
僕は先之から唐紙の外で立つて見て居たんだよ。病氣かい、心配でもあるのかい。言つて聞かしたつて可いぢやないか。」
宮は言ふ所を知らず、纔に膝の上なる紅絹を手弄るのみ。
「病氣なのかい。」
彼は僅に頭を掉りぬ。
「それぢや心配でもあるのかい。」
彼は仍頭を掉れば、
「ぢや如何したと云ふのさ。」
宮は唯胸の中を車輪などの廻るやうに覺ゆるのみにて、誠にも詐にも言を出すべき術を知らざりき。
彼は犯せる罪の終に秘む能はざるを悟れる如き恐怖の爲に心慄けるなり。
如何に答へんとさへ惑へるに、傍には貫一の益詰らんと待つよと思へば、身は搾らるるやうに迫來る息の隙を、得も謂はれず冷かなる汗の流れ流れぬ。
「それぢや如何したのだと言ふのに。」
貫一の聲音は漸く苛立ちぬ。
彼の得言はぬを怪しと思へばなり。宮は驚きて不覺に言出せり。
「如何したのだか私にも解らないけれど、・・・私は此二三日如何したのだか・・・變に色々な事を考へて、
何だか世の中が滿らなくなつて、唯悲くなつて來るのよ。」
呆れたる貫一は瞬もせで耳を傾けぬ。
「人間と云ふものは今日恁して生きてゐても、何時死んで了ふか解らないのね。恁して居れば、
可樂な事もある代りに辛い事や、悲い事や、苦い事なんぞが有つて、二つ好い事は無し、
考れば考るほど私は世の中が心細いわ。
不圖然う思出したら、毎日那樣事ばかり考へて、可厭な心地になつて、自分でも如何か爲たのかしらんと思ふけれど、
私病気のやうに見えて?」
【意訳】
前編 第五章 〔その31〕 ―― ミヤの躊躇い <密談> ――
ミヤは貫一に見つめられるのに耐えられず、
「何をそんなに見るの、嫌、私は」
と背を向け、布入れの中の探しものを始めた。
「ミイさん、お前さんどうしたの。どこか悪いのかい?」
「何ともないのよ。なぜ?」
こう言いながら益々探しものの手が早まった。
貫一は帽子を被ったまま火燵に片肱を掛けて、斜に彼女の顔を見やりつつ、
「だから水臭いと言うんだ。直ぐに疑り深いの、神経質だのと言うけど・・・」
「だって何ともないもの」
「何ともないものが、ぼんやり考えたり、溜息を吐いたりして鬱いだりするものか。
僕はさっきから見ていたんだよ。病気かい?心配でもあるのかい?相談してくれたっていいじゃあないかッ!」
ミヤは黙って膝の上の紅絹を手でまさぐるだけだった。
「一体どうしたんだい?話してくれよ」
ミヤはただ頭の中が空回りするだけで、本当であれ、嘘であれ、言葉が発せられなかった。
彼女は犯した罪を隠し通すことができないのを悟って、戦慄し、冷汗が流れた。
貫一の激しい口調の詰問に、とうとうミヤはいい加減な言い訳をした。
「私にも解らないけれど、何だか世の中がつまらなくなって、ただ悲しくなって来るのよ。
いつ死んでしまうか解らないしね。楽しい事もある代りに辛い事や、悲しい事や、苦しい事なんかもあって、
二つ同時に良い事は無いわ。考れば考るほど不安になるのよ。
そう思いだしたら、毎日そんな事ばかり考えて、・・・・ 私病気かしら?」
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇裁片疊/裁片畳(きれたたふ/きれたとう) ・・・ 「たとう」は厚紙を折りたたんだ小物入れの意。小切を入れる畳紙。
〇撈(かきさが)せり ・・・ 「撈」は「とる。すくいとる」の意味だが、「かきさがす」は「さかんにかき回す」の意味で、当て字。
〇唐紙(からかみ) ・・・ チャイナから渡来した紙、もしくはそれを模して作られた紙。平安時代は書道などで使い。中世以降は襖に貼る紙として用いられた。
〇仍(なほ/なお) ・・・ 1.なお。やはり。 2.かさねる。
〇得(え)も謂(い)はれず/得も謂われず ・・・ 何とも言い表せない。形容しがたい。
〇惘然(ぼんやり) ・・・ 「もうぜん」と音読みし、「気が抜けてぼんやりしているさま」の意味。茫然(ぼうぜん)。
〇滿(つま)らなく/満らなく ・・・ 「つまらない」の当て字。本来は「詰らない」と書き、「価値がない。意味がない。楽しくない」の意味。そういう意味でなら「満」の方が適当かもしれない。
〇可樂/可楽(たのしみ) ・・・ 「可」は「よいこと。よいと認めること」で、「可楽」は「たのしむべく」の意味。
〇不圖/不図(ふと) ・・・ ふと。はからずも。偶然。たちまち。不意に。