『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その30 ―― ミヤの躊躇い <密談> ――
【現代口語訳】
前編 第五章 〔その30〕
この日貫一は始業式だけで早く帰って来たが、下座敷には誰も見えず、火燵の間にミヤの咳をする声がして、
後は静かに、自分が帰ったのを知らないのだと思ってので、忍び足に窺い寄って行った。
襖が僅かに開いた隙間から覗くと、ミヤは火燵にもたれ、ガラス障子を眺めては伏し目になり、
また胸が痛いように上を向いては溜息をつき、急になにかの音を聞き澄ますように、美しい目を見張るのは、何かを思いめぐらしているに違いなかった。
人が窺っているとは知らなかったので、彼女は口で訴えるような心の苦悶をその身体に表してはばからなかった。
貫一は怪しみつつも息を潜めて、なほ彼女のする様を見ようとしていた。
ミヤは少しして火燵に入ったが、とうとう櫓に打ち伏した。
柱に身を寄せて、斜めに内を窺いつつ、貫一は眉をひそめて思い迷った。
彼女はどんな事情があって、それほどに案じ煩うのだろう。
それほど案じ煩うべき事をどうして自分に明さないのだろう。
その理由のあることを知らないのと共に、案じ煩う必要も彼は信じられなかった。
こうしてまた、案じ煩う彼の顔も自ずからうつむいた。
聞かなければ判らないと思い定めて、再び内を覗いてみると、ミヤはなお打ち伏していた。
いつ落ちたのだろう、蒔絵の櫛が落ちたのも知らずに。
人の気配に驚いてミヤが振り仰ぐ時、貫一は既にその傍に居た。
彼女は慌てて思い悩む様子を隠そうとしたようだった。
「ああ、びっくりした。いつお帰りなさって」
「今帰ったの」
「そう。ちっとも知らなかった」
【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第五章 〔その30〕
此の日貫一は授業始の式のみにて早く歸來にけるが、下座敷には誰も見えで、炬燵の間に宮の咳く聲して、
後は静に、我が歸りしを知らざるよと思ひければ、忍足に窺寄りぬ。
襖の僅に啓きたる隙より差覗けば、宮は火燵に倚りて硝子障子を眺めては俯目になり、又胸痛きやうに仰ぎては太息吐きて、
忽ち物の音を聞澄すが如く、美き目を瞠るは、何をか思凝すなるべし。
人の窺ふと知らねば、彼は口もて訴ふるばかりに心の苦悶を其状に顯して憚らざるなり。
貫一は異みつつも息を潜めて、猶彼の爲んやうを見んとしたり。
宮は少時ありて炬燵に入りけるが、遂に櫓に打俯しぬ。
柱に身を倚せて、斜に内を窺ひつつ貫一は眉を顰て思惑へり。
彼は如何なる事ありて然ばかり案じ煩ふならん。
然ばかり案じ煩ふべき事を如何なれば我に明さざるならん。
その故のあるべく覺えざると與に、案じ煩ふ事のあるべきをも彼は信じ得ざるなりけり。
恁く又案じ煩へる彼の面も自ら俯きぬ。
問はずして知るべきにあらずと思定めて、再び内を差覗きけるに、宮は猶打俯して居たり。
何時か落ちけむ、蒔繪の櫛の零れたるも知らで。
人の氣勢に驚きて宮の振仰ぐ時、貫一は既に其傍に在り。
彼は慌てて思頽るる氣色を蔽はんとしたるが如し。
「ああ、吃驚した。何時御歸んなすつて。」
「今歸つたの。」
「然う。些も知らなかつた。」
【意訳】
前編 第五章 〔その30〕 ―― ミヤの躊躇い <密談> ――
この日貫一は始業式だけで早く帰って来たが、下座敷には誰も見えなかった。
火燵の間にミヤの咳をする声がしたので、忍び足に近付いて行った。
襖の隙間から覗くと、ミヤは火燵にもたれ、ガラス障子を眺めては伏し目になり、また、上を向いては溜息をつき、
何かを思いめぐらして、心の苦悶を表していた。
貫一は怪しみつつも息を潜めて、なお彼女の様子を窺った。
ミヤは少しして火燵に入ったが、とうとう櫓に打ち伏した。
貫一は、斜めに内を窺いつつ、思い悩んだ。
彼女はどんな事情があって、あれほどに案じ煩うのだろう。
それをどうして自分に相談しないのだろう。
そう考えると、彼もまた、うつむいた。
聞かなければ判らないと、意を決して内へ忍び入った。
ミヤは、人の気配に驚いて振り仰ぎ、慌てて悩む様子を隠して、
「ああ、びっくりした。いつお帰りなさって」
「今帰ったの」
「そう。ちっとも知らなかった」
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇蒔繪/蒔絵(まきゑ/まきえ) ・・・ 漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法。
〇零(こぼ)れる ・・・ 落ちる。
〇氣勢/気勢(けはひ/けはい) ・・・ 気配(けはい)。
〇思頽(おもひくづを)る/思(おも)い頽(くずお)る ・・・ 気落ちする。落胆する。
〇氣色/気色(けしき) ・・・ ようす。顔色。