『金色夜叉』(こんじきやしゃ)  その29  ―― ミヤの躊躇(ためら)い <密談> ――


 【現代口語訳】

  前編 第五章   〔その29〕


   第五章


 ある日、箕輪の内儀は思いもかけず訪ねて来た。その娘のお俊とミヤとは学校友達だったので、

常に行き来はあったが、いまだに家と家との交際はなかった。

 彼女らの通学していた頃でさえ親々は互いに面識なく過ぎており、今は二人の往来もだんだん疎遠になっているのに、

突然その母が来たのは、どのような理由かと、ミヤも両親も怪しい事に思えた。

 およそ三時間の後、彼女は帰って行った。

 先に怪しんだ家内は彼女の来たことよりも、その用事の更に思いがけないことに驚いた。

 貫一は不在だったので、この珍しい来客があったことを知らず、ミヤもまた敢えて告げずに、二日過ぎ、三日が過ぎた。

 その日よりミヤは食が細くなり、眠りが少なくなった。

 貫一は知らず、ミヤはなおも告げようとはしなかった。

 この間に両親は幾度となく話し合ったが、その事を決しかねていた。

 彼の陰にあって起きた事、または見えない人の心に浮ぶ事などは、貫一の知る由もなかったが、

片時もその目が忘れないミヤの様子がいつもとは変っているのを見出すのは難しいことではない。

 以前と違って顔色がにわかに光を失ったかのようで、振舞いにはことさらに力無く、笑うのさえひどく湿っているのを。

 ミヤの居間と言うほどではないが、彼女の箪笥、手道具などを置いた小部屋があった。

 ここには火燵の炉を切って、暇な人が来ては、かわるがわるに冬籠りする所にも用いられていた。

 彼女はいつもここで針仕事をしていた。飽きれば琴も弾いた。

 彼女が手なぐさみに活けた狗子柳(えのこやなぎ)の、もう根が(ゆる)み、中心が傾いてきているのが、鮟鱇切(あんこうぎり)の花器の水に(ほこり)を浮べて小机の(かたわ)らにあった。

 庭に向った肱掛(ひじか)け窓からの明るみに敷紙(しきがみ)を広げて、ミヤは膝の上に紅絹(もみ)引解(ひきとき)を載せたが、

針は持たずに、もの憂げに火燵にもたれていた。

 彼女は少食になり多く眠らなくなってからは、好んでこの一間に入り、深く物思いに耽っていた。

 両親は事情を知っているので、この様子を怪しもうとしないで、ただ彼女のするままにまかせていた。


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 【原文】  註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。

  前編 第五章   〔その29〕


   第五章


 或日(あるひ)箕輪の内儀(ないぎ)(おもひ)()けず訪来(とひきた)りぬ。

 (その)娘のお俊と宮とは學校朋輩(ほうばい)にて常に往來(ゆきき)したりけれども、(いま)だ家と家との交際はあらざるなり。

 彼等(かれら)の通學せし頃さへ親々(おやおや)(たがひ)()らで過ぎたりしに、今は二人の往來(わうらい)(やうや)(うと)くなりけるに(およ)びて、

(にわか)其母(そのはは)(きた)れるは、如何(いか)なる(ゆゑ)にか、と宮も兩親(ふたおや)(あやし)き事に(おも)へり。

 (およ)そ三時間の(のち)彼は歸行(かへりゆ)きぬ。

 先に(あやし)みし家内(かない)は彼の(きた)りしよりも(その)用事の(さら)思懸(おもひが)けざるに(おどろ)けり。

 貫一は不在なりしかばこ()(めづらし)客來(きやくらい)のありしを知らず、宮も亦敢(またあへ)()げずして、二日と過ぎ、三日と過ぎぬ。

 其日(そのひ)より宮は(すこし)(しよく)して、多く(ねむ)らずなりぬ。

 貫一は知らず、宮は(いよいよ)()げんとは()ざりき。

 此間(このあひだ)兩親(ふたおや)幾度(いくたび)と無く談合しては、其事(そのこと)を決しかねて()たり。

 彼の陰に()りて(おこ)れる事、(また)は見るべからざる人の心に浮べる事どもは、

貫一の知る(よし)もあらねど、片時(へんじ)其目(そのめ)の忘れざる宮の様子の常に(かは)れるを見出(みいだ)さんは(かた)き事にあらず。

 ()も無かりし人の顔の色の(にはか)に光を(うしな)ひたるやうにて、振舞(ふるまひ)など()けて力無(ちからな)く、

笑ふさへいと打濕(うちしめ)たるを。

 宮が居間と()ふまでにはあらねど、彼の箪笥手道具等置(たんすてだうぐなどお)きたる小座敷(こざしき)あり。

 (ここ)には火燵(こたつ)()を切りて、用無き人の()ては(かたみ)冬籠(ふゆごもり)する所にも用ゐらる。

 彼は常に(ここ)に居て針仕事するなり。

 ()めば(こと)をも()くなり。

 彼が手玩(てすさみ)と見ゆる狗子柳(いのこやなぎ)はや()(ゆる)(しん)打傾(うちかたむ)たるが、

鮟鱇切(あんかうぎり)の水に(ほこり)を浮べて小机(こづくゑ)(かたへ)()り。

 庭に向へる肱懸窓(ひぢかけまど)(あかる)きに敷紙(しきがみ)(ひろ)げて、宮は膝の上に紅絹(もみ)引解(ひきとき)を載せたれど、針は持たで、(ものう)火燵(こたつ)(もた)たり。

 彼は(すこし)く食して多く眠らずなりてよりは、好みて此一間(このひとま)に入りて、深く物思(ものおも)ふなりけり。

 兩親は仔細(しさい)を知れるにや、此樣子(このようす)をば(あやし)まんともせで、唯彼(ただかれ)()すままに(まか)せたり。


 【意訳】

  前編 第五章   〔その29〕   ―― ミヤの躊躇(ためら)い <密談> ――


   第五章


 ある日、箕輪の内儀が思いもかけず訪ねて来た。

 娘のお俊とミヤとは学校友達だったのだが、家と家との交際はなかった。

 その母が突然来たのは、どのような理由かと、ミヤも両親も訝しんだ。

 およそ三時間の後、彼女は帰って行った。


 貫一は不在だったので、この来客を知らず、ミヤもまた告げずに三日が過ぎた。

 その日よりミヤは食が細くなり、眠りも少なくなった。

 この間に両親は幾度となく話し合ったが、その事を決しかねていた。

 貫一も、ミヤの様子の異変には気付いた。

 ミヤは自分の箪笥、手道具などを置いた小部屋があり、そこの炬燵で針仕事するのが常だった。

 しかし、あの日以来、好んでこの一間に入り、深く物思いに耽っていた。

 両親は事情を知っているので、ただ彼女のするままにまかせていた。


 【語彙解説】  註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。


〇打濕/打湿(うちしめ)り ・・・ 物静かになる。しっとりと落ち着く。しんみりする。

〇炬燵(こたつ)の爐(ろ)を切り ・・・ 炬燵用の炉をつくる。

〇迭(かたみ) ・・・ かわるがわる。

〇手玩(てすさみ)/手遊(てすさ)び ・・・ 退屈を紛らわすためにする、手先の仕事。手慰(てなぐさ)み。

〇狗子柳(いのこやなぎ/えのこやなぎ) ・・・ ヤナギ科の落葉低木、園芸植物。ネコヤナギの別称。<詳細>

〇はや根(ね)を弛(ゆる)み ・・・ 「はや」は、「もう。すでに」の意味。よって、「もう根が弛み」「すでに根が弛み」となる。

〇眞(しん)の打傾(うちかたむ)き ・・・ 中心が傾き。

〇鮟鱇切(あんこうぎり) ・・・ 竹製の花器。一重切の生け口の大きくて、アンコウの口に似た形をしたもの。あんこうがた。あくびがた。

〇傍(かたへ) ・・・ かたわら。そば。

〇肱懸窓/肘掛窓(ひじかけまど) ・・・ 座って肘を掛けられるくらいの高さに設けた窓。

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〇紅絹(もみ)の引解(ひきとき/ひっとき) ・・・ 「紅絹」は〔ベニバナを揉んで染めるところから〕(べに)で染めた無地の平絹。女物長着(おんなものながぎ)〔一般的な着物〕の胴裏(どううら)や袖裏に用いる。もみぎぬ。
「引解」は、綿ぬきの着物。冬に用いた綿入れの綿を抜き、裏を引き解いて夏の単衣としたもの。

〇懶(ものう)げ/物憂(ものう)げ ・・・ なんとなく憂鬱な。なんとなく気がふさぐような。

〇靠(もた)れ/凭(もた)れる ・・・ 人や物に自分の身体の重みをあずける。寄りかかる。


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