『金色夜叉』(こんじきやしゃ)  その28  ―― ミヤの躊躇(ためら)い <女ごころ> ――


 【還暦ジジイの説明】


 貫一は帝大へ進学するエリートで、自信満々であってもおかしくない。

 富山(ごと)きに引けは取らない、の自負はなかったのか?


 男が婚約を反古(ほご)にして、女から(うら)まれるのは解る。

 ところが、貫一は男である。

 見限られたとは言え、ちょっと女々(めめ)しい主役だなあ、との印象であった。

 しかし・・・

 いや!いや!思い出した!

 遠い昔、私も似たような経験があった。

 友人皆が知っている女の子に振られた。

 ()(たま)れないのである。

 私は皆の前から、逃げた。ははは


 貫一君!やっと君の心情が解ったよ!(笑)



 【現代口語訳】

  前編 第四章   〔その28〕


「嫌よ、もう、貫一さんは」

「友達中にもそう知れて見ると、立派に夫婦にならなければ、いよいよ僕の男が立たないわけだ」

「もう決っているものを、今更・・・」

「そうでないです。この頃おじさんやおばさんの様子を見ると、どうも僕は・・・」

「そんな事は決けして無いわ、邪推だわ」

「実はおじさんやおばさんの了見はどうでもよい、ミイさんの心一つなのだ」

「私の心は決まっているわ」

「そうかしらん?」

「そうかしらんて、それじゃあ、あんまりだわ」

 貫一は酔を支えかねてミヤの膝を枕に倒れた。ミヤは彼の火のような頰に、額に、手を加えて、

「お水を上げしょう。あれ、また寝ちゃ・・・貫一さん、貫一さん」

まことに愛の潔さだろう。この時はミヤの胸の中にも例の汚れた希望は跡を絶って、

彼女の美しい目は他に見るべきものがあるはずもないかのように、

その力を貫一の寝顔に集めて、富も貴きも、またはあらゆる利欲の念は、

その膝に感じるひとかたまりのほのかな温かさのためにとろかされて、

彼女はただ不思議なまでに香しい甘露の夢に酔って前後も判らなくなっていた。

もろもろの忌しい妄想はこの夜のように眼を閉じて、この一間に彼等の二人以外はないように、

彼女は世間に別の人の影はなく、また、この明らかな燈火の光のようなものがあって、(こと)に彼らをだけ照すように感じていた。

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 【原文】  註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。

  前編 第四章   〔その28〕


 「可厭(いや)よ、もう貫一さんは。」

 「友達中にも()う知れて見ると、立派に夫婦にならなければ、(いよい)よ僕の男が立たない(わけ)だ」

 「もう(きま)つて()るものを、今更(いまさら)・・・・。」

 「()うでないです。此頃(をぢ)さんや(をば)さんの樣子を見るのに、如何(どう)も僕は・・・・。」

 「那樣(そんな)事は決けして無いわ、邪推(じやすゐ)だわ。」

(じつ)(をぢ)さんや(をば)さんの了簡(れうけん)如何(どう)でも()い、(みい)さんの心(ひと)つなのだ。」

「私の心は(きま)つて居るわ。」

()うか知らん?」

「然うか知らんて、それぢや(あんま)りだわ。」

 貫一は(ゑひ)(ささ)へかねて宮が(ひざ)を枕に倒れぬ。宮は彼が火の如き頰に、額に、手を加へて、

「水を上げませう。あれ、又寐(またね)ちや……貫一さん、貫一さん。」

(まこと)に愛の(いさぎよ)(かな)此時(このとき)は宮が胸の中にも例の(けが)れたる希望(のぞみ)(あと)()ちて彼の(うつくし)き目は他に見るべきもののあらざらんやうに、

()の力を貫一の寐顔(ねがほ)(あつ)めて、(とみ)(たふと)きも、乃至(ないし)(あら)ゆる利慾(りよく)(ねん)は、其の膝に(おぼ)ゆる一團(いちだん)微温(びおん)(ため)(とろか)されて、

彼は唯妙(ただたへ)(かうばし)甘露(かんろ)の夢()ひて前後をも知らざるなりけり。

(もろもろ)可忌(いまはし)妄想(まうさう)は此の夜の如く(まなこ)を閉ぢて、此一間(このひとま)に彼等の二人よりは()らざる(ごと)く、

彼は世間に別人の影を見ずして、又此(またこ)(あきらか)なる燈火(ともしび)の光の如きものありて、(こと)彼等をのみ照すやうに感ずるなり。


 【意訳】

  前編 第四章   〔その28〕   ―― ミヤの躊躇(ためら)い <女ごころ> ――


 「嫌よ、十時に帰るというから待っていたのに・・・」

 「友達が皆、知っているとなると、ほんとに夫婦にならなければ、僕の男が立たないわけだ」

 「もう決っているものを、今更・・・」

 「そうかなあ。この頃おじさんやおばさんの様子を見ると、どうも・・・」

 「そんな事は無いわ」

 「実はおじさんやおばさんの了見はどうでもよい、ミイさんの心一つなのだ」

 「私の心は決まっているわ」

 「そうかしらん?」

 「そうかしらんて、それじゃあ、あんまりだわ」

 貫一は酔に堪えかねてミヤの膝を枕に倒れた。

 ミヤは彼の頰や額に手を当てた。

 その時、ミヤの胸中には、例の汚れた希望(のぞみ)、あるいは富貴や利欲の念が、消えて無くなっていた。


 【語彙解説】  註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。


〇翁(をぢ/おじ)さん ・・・ 血縁関係のない他所の年配の男性。「翁」は年老いた男性の総称。

〇姨(をば/おば)さん ・・・ 血縁関係のない他所の年配の女性。「翁」と同じ意味で女性の場合は「媼」「刀自」を用いる。
 「姨」は母方の姉妹、特に妹を指すので、もしかしたら貫一の母と血縁関係があったのか。

〇邪推(じやすゐ/じゃすい) ・・・ 他人の心意を悪く推量すること。

〇了簡/了見/料簡(れうけん/りょうけん) ・・・ 考え。思慮。分別。

〇醉(ゑひ)/酔(よい) ・・・ 酒などを飲んだときに起る生理現象。

〇寔(まこと)に ・・・ 本当に。実に。

〇唯妙(ただたへ/ただたえ)に ・・・ 「ただ」は強調の意。「妙に」は「不思議なまでに」の意味。

〇甘露(かんろ)の夢 ・・・ 「甘露」は古代チャイナの伝説で、天子が仁政を行うめでたい前兆として、天から与えられる甘い不老不死の霊薬のこと。お宮にとっての「甘露」は、結婚後、思い描いていた高貴で裕福な生活である。それを夢見ていた。


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