『金色夜叉』(こんじきやしゃ)  その24  ―― ミヤの躊躇(ためら)い <女ごころ> ――


 【還暦ジジイの解説】


 十能(じゅうのう)って、幼い頃に聞いた記憶はあったが、どんな物かが思い浮かばない。

 調べてみて、記憶が蘇った。

 死語になったんですねえ。

 寂しいですねえ。


 【現代口語訳】

  前編 第四章   〔その24〕


   第四章


 (うるし)のような(やみ)の中で貫一の書斎(しょさい)の枕時計は十時を打った。

 彼は午後四時から向島の八百松(やおまつ)に新年会あるというので、まだ帰っていなかった。

 ミヤは奥から手ラムプを持って入って来たが、机の上ある書燈を点し終った頃、

手伝い女が台付の十能に炭火を盛ったのを持って来た。

 ミヤはこれを火鉢に移して、

 「そうして奥のお鉄瓶(てつ)も持って来ておくれ。ああ、もうあちらお休みになるのだから」

 (しばら)く人気の絶えていた一間の寒さは、今にわかに人の温い肉体を得たのを喜んで、(ただ)ちに()もうとするかのように肌に迫った。

 ミヤは慌しく火鉢に取付きつつ、目を挙げて書棚に飾られた時計を見ていた。

 夜の暗く静かなるところに、燈火の光がひとり美しい顔を照らしている、限りなく情緒ある光景だった。

 松の内なので彼女はいつもより着飾り、化粧もしていたので、露を帯びた花の梢に月が映る黒い影ですら香るような美しさがあらわれていた。

 ダイアモンドと光を争った目が惜しげもなく見開かれ、時計が秒を刻むのを見守った。

 火に翳した彼女の手を見よ、宝石のようであった。

 そして、友禅模様ある紫縮緬の半襟に包まれた彼女の胸を想ってみよう。

 その胸の中に彼女は今いかなる事を思っているかを想ってみよう。

 彼女は憎からぬ人の帰りを待ちわびているのだった。

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 ひとしきり、また、寒さが(はなはだ)しいのを感じて、彼女は時計から目を離すとともに立って、

火鉢の対面にある貫一の座布団の上に席を移した。

 これは彼女の手で縫ったのを貫一が常に敷くもので、貫一の敷くものを今夜は彼女の敷いていた。

 もしやと聞こえた車の音はだんだん近づきて、ますます轟き、ついに我が家の門で停まった。

 ミヤは間違いなしと思って立とうとする時、客はひどく酔った声で物を言った。

 貫一はまったく酒が飲めず、かつて酔って帰った事はなかったので、ミヤは力無くまた坐った。

 時計を見ると早くも十一時になろうとしていた。



 【原文】  註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。

  前編 第四章   〔その24〕


   第四章


 漆の如き闇の中に貫一の書齋の枕時計は十時を打ちぬ。

 彼は午後四時より向島(むかふじま)八百松(やほまつ)に新年會ありとて(いま)(かへ)らざるなり。

 宮は奥より()ラムプを持ちて入來(いりき)にけるが、机の上なる書燈(しよとう)(とも)(をは)れる時、

(をんな)臺十能(だいじふのう)に火を盛りたるを持來(もちき)たれり。

 宮はこれを火鉢に移して、

 「(さう)して奥の鐵瓶(てつ)も持つて來ておくれ。ああ、もう彼方(あちら)御寝(おやすみ)になるのだから。」

 久しく人氣(ひとけ)の絶えたりし一間の寒さは、今(にはか)に人の(あたたか)き肉を得たるを喜びて、

(ただ)ちに()まんとするが如く(はだへ)(せま)れり。

 宮は慌忙(あわただ)しく火鉢(ひばち)に取付きつつ、目を()げて書棚に飾れる時計を見たり。

 夜の(くら)く静なるに、(ともし)の光の(ひと)(うつくし)き顔を照したる、限無(かぎりな)(えん)なり。

 松の内とて彼は常より着飾れるに、化粧をさへしたれば、露を帶びたる花の(こずゑ)に月のうつろへるが如く、

背後(うしろ)の壁に映れる黒き影さへ香滴(にほひこぼ)るるやうなり。

 金剛石(ダイアモンド)と光を(あらそ)ひし目は惜氣(おしげ)も無く(みは)りて時計の(セコンド)(きざ)むを打目戍(うちまも)れり。

 火に(かざ)せる彼の手を見よ、玉の如くなり。

 ()らば友禪(ゆうぜん)模様ある紫縮緬(むらさきちりめん)半襟(はんえり)(つつ)まれたる彼の胸を想へ。

 ()の胸の(うち)に彼は今如何(いまいか)なる事を思へるかを想へ。

 彼は憎からぬ人の歸来(かへり)待佗(まちわ)ぶるなりけり。

一時又寒(ひとしきりまたさむさ)太甚(はなはだし)きを(おぼ)えて、彼は時計より目を(はな)つと(とも)()ちて、

火鉢の對面(むかふ)なる貫一が(しとね)の上に座を移せり。

 ()は彼の手に()ひしを貫一の常に()くなり、貫一の敷くをば今夜彼の敷くなり。

 (もし)やと聞着(ききつ)けし車の音は(やうや)(ちかづ)きて、(ますます)(とどろ)きて、(つひ)我門(わがかど)(とどま)りぬ。

 宮は疑無(うたがひな)しと思ひて()たんとする時、客はいと()ひたる(こゑ)して物言へり。

 貫一は生下戸(きげこ)なれば(かつ)()ひて(けへ)りし事あらざれば、宮は力無(ちからな)又坐(またすわ)りつ。

 時計を見れば早や十一時に(なんな)んとす。


 【意訳】

  前編 第四章   〔その24〕   ―― ミヤの躊躇(ためら)い <女ごころ> ――


 貫一は、午後四時から新年会があり、まだ帰っていなかった。

 ミヤは、下女が台十能で炭火を持って来てので火鉢に移して、

 「奥の鉄瓶も持って来ておくれ」と頼んだ。

 人気の絶えていた一間の寒さは、肌を刺した。

 松の内なので彼女はいつもより着飾り、火に翳した彼女の手は、宝石のようであった。


 彼女は好意を寄せている貫一の帰りを待ちわびているのだった。

 寒さが(はなはだ)しいのを感じて、彼女は火鉢の対面にある貫一の座布団の上に席を移した。

 これは彼女の手作りの座布団だった。

 車の音がだんだんと近づいて来て、家の前で停まった。

 ミヤは立とうとしたが、客がひどく酔った声だったので、下戸の貫一ではない、と思い力無くまた坐った。

 時計は十一時になろうとしていた。



 【語彙解説】  註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。

〇八百松(やほまつ/やおまつ) ・・・ 向島の水神の森(現在:墨田区隅田町)に在った有名な料理店。

〇臺十能/台十能(だいじふのう/だいじゅうのう) ・・・ 炭火を入れたまま床に置けるように台をつけた十能。十能は、熾(おこ)した炭や灰を運ぶための片手鍋状の道具。

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〇お鐵瓶(てつ) ・・・ 「てつびん」のこと。日本の茶の湯釜から派生した鉄製の湯沸かしの器具。

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〇裀(しとね) ・・・ 敷物。座布団。

〇生下戸(きげこ) ・・・ 酒のまったく飲めない人。まったくの下戸。


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