『金色夜叉』(こんじきやしゃ)  その23  ―― ミヤの躊躇(ためら)い <女ごころ> ――



 【現代口語訳】


  前編 第三章   〔その23〕


 当時、ミヤは明治音楽院に通っていたが、ヴァイオリンのプロフェッサーのドイツ人は彼女の愛らしき袂に恋文を投入れた。

 これは勿論、不真面目な恋ではなく、結婚を望んでのものだった。

 殆ど同時に、院長の某は年四十を超えていたが、先年妻と死別し、彼女と再婚しようと、

密に一室に招いて切なる心を打明けた事があった。

 この時彼女の小さな胸は破れそうになるほど激しく鼓動した。

 半分はかつて感じたことのない恥ずかしさのために、半分は突然に大きな望みが宿ったために。

 彼女は、ここに初めて自分の美しさの少なくとも奏任(官僚)以上の地位ある名士を夫にするに値すると信じたのだった。

 彼女を美しく見たのは教師と院長とのみではなく、垣根を隔てた男子部の皆々が常に彼女を見ようとして騒ぐのも、

ミヤは知らないわけではなかった。

 もしかのプロフェッサーと結婚したり、或は四十の院長に従うにしても、彼女の栄誉ある地位は、

学士を婿にして鴫沢家の後を継ぐの比ではないだろう、と、一旦抱ける希望は年と共に大きくなり、

彼女は始終昼でも夢みつつ、今にも貴人、または、金持ち、または、名のある人が自分を見出して、

玉の輿を担がせて迎えに来るはずの縁が、必ず廻って来ることを信じて疑わなかった。

 彼女がそれほどには深く貫一を想わないのは全くこのためだけだった。

 しかし、決して貫一を嫌っているのではなく、彼と結婚すればやはり楽しいだろうとは思っていた。

 このように、定かにそれとは無けれど、また有るとも見える幸運を望みつつも、彼女は変らず貫一を愛していた。

 貫一は彼女の胸中には、自分を愛する以外には何もないと思っていた。



 【原文】  註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。

  前編 第三章   〔その23〕


 當時(たうじ)彼は明治音樂院に(かよ)ひたりしに、ヴァイオリンのプロフェッサアなる獨逸(ドイツ)人は彼の愛らしき(たもと)艶書(えんしよ)投入(なげい)れぬ。

 是素(これもと)より(あだ)なる(こひ)にはあらで、女夫(めをと)(ちぎり)を望みしなり。

 (ほとん)ど同時に、院長の(なにがし)年四十(とししじゆ)()えたるに、先年(その)妻を(うしな)ひしをもて再び彼を(めと)らんとて、

(ひそか)に一室に(まね)きて(せつ)なる心を打明かせし事あり。

 この時彼の(ちひさ)き胸は破れんとするばかり(とどろ)けり。

 (なかば)(かつ)(おぼ)えざる可羞(はづかしさ)(ため)に、(なかば)(にはか)に大いなる希望(のぞみ)宿(やど)りたるが爲に。

 彼は(ここ)に始めて己の美しさの(すくな)くとも奏任(そうにん)以上の地位ある名流(めいりう)(その)夫に(あた)ひすべきを信じたるなり。

 彼を(うつくし)く見たるは彼の教師と院長とのみならで、(かき)(とな)れる男子部の諸生(しよせい)(つね)に彼を見んとて打騒(うちさわ)ぐをも、宮は知らざりしにあらず。

 若彼(もしか)のプロフェッサアに()はんか、(あるひ)は四十の院長に(したが)はんか、彼の榮譽(えいよ)ある地位は、

學士を婿にして鴫澤の(あと)()ぐの()にはあらざらんをと、一旦(いッたん)(いだ)ける希望(のぞみ)は年と共に太りて、

彼は始終(しじゆう)(ひる)ながら夢みつつ、今にも(たふた)き人又は()める人又は()ある人の(おのれ)見出(みいだ)して、

玉の輿(こし)(かか)せて(むかへ)(きた)るべき天縁(てんえん)の、必ず廻到(めぐりいた)らんことを信じて疑はざりき。

 彼の()までに深く貫一を思はざりしは全くこれが(ため)のみ。

 ()れども決して彼を嫌へるにはあらず、彼と()はば有繋(さすが)(たのし)からんとは(おも)へるなり。

 如此(かくのごと)決定(さだか)(それ)とは無けれど又有(またあ)りとし見ゆる箒木(ははきぎ)好運(かううん)を望みつつも、

彼は(おこた)らず貫一を愛してゐたり。

 貫一は彼の己を愛する(ほか)には()の胸の(うち)に何もあらじとのみ思へるなりけり。


 【意訳】

  前編 第三章   〔その23〕   ―― ミヤの躊躇(ためら)い <女ごころ> ――

 当時、ミヤは明治音楽院に通っていたが、ドイツ人のヴァイオリン教師は、彼女にラブレターを渡した。

 結婚を望んだ真面目なものだった。

 殆ど同時に、四十を超え、先年妻と死別した某病院の院長が、彼女と再婚しようと、打明けた。

 この時彼女の小さな胸は破れそうになるほど激しく鼓動し、大きな望みが宿った。

 彼女は、初めて自分の美しさの少なくとも奏任(官僚)以上の地位ある名士を夫にするに値すると信じたのだった。

 彼女を美しく見たのは教師と院長とのみではなく、垣根を隔てた男子部の皆々が常に彼女を見ようとして騒ぐのも、

ミヤは知らないわけではなかった。

 もしかのプロフェッサーと結婚したり、或は四十の院長に従うにしても、彼女の栄誉ある地位は、

学士を婿にして鴫沢家の後を継ぐの比ではないだろう、と、一旦抱ける希望は年と共に大きくなり、

彼女は始終昼でも夢みつつ、今にも貴人、または、金持ち、または、名のある人が自分を見出して、

玉の輿を担がせて迎えに来るはずの縁が、必ず廻って来ることを信じて疑わなかった。

 彼女がそれほどには深く貫一を想わないのは全くこのためだけだった。

 しかし、決して貫一を嫌っているのではなく、彼と結婚すればやはり楽しいだろうとは思っていた。

 このように、定かにそれとは無けれど、また有るとも見える幸運を望みつつも、彼女は変らず貫一を愛していた。

 貫一は彼女の胸中には、自分を愛する以外には何もないと思っていた。


 【語彙解説】  註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。


〇プロフェッサー ・・・ 教授。大学教授。

〇艶書(えんしょ) ・・・ 恋文。ラブレター。

〇仇(あだ)なる戀(こひ/恋/こい) ・・・ 「仇」は「徒」で、従って、意味は。 1.実を結ばないむなしい恋。 2.浮ついた、不誠実な恋。 3.いい加減な恋。

〇奏任以上の地位(そうにんいじょうのちい) ・・・ 明治時代の官吏の身分上の等級で、上から勅任官、奏任官、判任官の三等に区分され、高等官官等棒給令によって詳細に規定されていた。上から二番目の「奏任官」を今に当てはめると、本省課長、企画官クラス。

〇牆(かき) ・・・ 垣根のこと。


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