『金色夜叉』(こんじきやしゃ)  その22  ―― ミヤの躊躇(ためら)い <女ごころ> ――


 【還暦ジジイの解説】


 十八歳の美人から、

 「結婚するときは、お金の心配の要らない裕福な暮らしのできる相手を選びたい。年に一度や二度は海外旅行もしたい。」

 要するに、「貴方は失格よ」と、袖にされたんですねえ(笑)

 そう宣言されて、納得して感銘を受けてしまいました。

 貫一みたいに、爆発力に変えりゃあ良かったのに・・・残念です。


 【現代口語訳】

  前編 第三章   〔その22〕


 貫一は勉強熱心なだけでなく、性質も真っ直ぐで、行いも良いので、この人物をもって学士の栄冠(えいかん)(いただ)いたならば、

誠に得難(えがた)婿(むこ)だろう、と夫婦はひそかに喜んでいた。

 この財産を譲られるとして、他の姓を名乗り、言葉にし難い屈辱を忍ぶのは、彼の潔しとするところではなかったが、

美しいミヤを妻にできるのならば、この財産も屈辱もどれほどのことか、と、彼はかえって夫婦に増す喜びを抱いて、

ますます学問に励んでいた。

 ミヤも貫一を憎からず思っていた。しかし恐らくは、貫一の想う半分もなかったろう。

 なぜなら、彼女は自らその美しさを知っているためである。

 世間の女で誰が、自らの美しさを知らないものがあるだろう。

 問題なのは、自ら知り過ぎることである。

 言ってみれば、ミヤは自分の美しさにどれほどの価値があるかを当然に知っていた。

 彼女の美しさをもってしても、わずかな資産を継ぎ、他にも数多い学士風情を夫に持つのは、決して、彼女の望みの絶頂ではなかった。

 彼女は貴人の奥方が、低い身分から出た例が少なくないのを見ていた。

 また金持ちが醜い妻を嫌い、美しい妾に親しくするのを見ていた。

 才能さえあれば、男は立身出世が思いのままなるように、女は容姿で財や身分を得るものだと信じていた。

 しかも彼女は、容姿をもって財や身分を得た人たちかの幾人かを見て、その容姿が自分ほどではない者が多いのを見出した。

 その上、彼女は行く所でその美しさを誉められないことがなかった。

 さらに一つ、最も彼女の意を強くした出来事があった。

 それは彼女が十七歳のときに起った事だ。



 【原文】  註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。

  前編 第三章   〔その22〕


 貫一は篤學(とくがく)のみならず、性質も(すぐ)に、(おこなひ)(ただし)かりければ、(この)人物を()つて學士の(かんむり)(いただ)かんには、

誠に獲易(えやす)からざる婿(むこ)なるべし、と夫婦は(ひそか)に喜びたり。

 此身代(このしんだい)を譲られたりとて、他姓(たせい)(をか)して得謂(えい)はれぬ屈辱(くつじよく)(しの)ばんは、彼の(いさぎよ)しと()ざるところなれども、

(うつくし)き宮を妻に()るを()ば、此身代も屈辱も(なに)()らんと、彼はなかなか夫婦に增したる(よろこび)(いだ)きて、

(ますます)學問を(はげ)みたり。

 宮も貫一をば憎からず思へり()れど(おそら)くは貫一の思へる(なかば)には過ぎざらん。

 彼は(みづか)らその色好(いろよ)を知ればなり。

 世間(せけん)の女の誰か自ら()色好(いろよき)を知らざるべき、(うれ)ふるところは自ら知るに(すぐ)るに()り。

 ()()くんば、宮は己が(うつく)しさの幾何値(いかばかりあたひ)するかを當然(とうぜん)に知れるなり。

 彼の美しさを()てして(わづか)箇程(かほど)の資産を()ぎ、類多(るひおほ)き學士風情を(をッと)()たんは、
決して彼が所望(のぞみ)の絶頂にはあらざりき。

 彼は貴人(きじん)奥方(おくがた)微賤(びせん)より()でし例寡(ためしすくな)からざるを見たり。

 (また)は富人の(みにく)き妻を(いと)ひて、(うつくし)(めかけ)(したし)むを見たり。

 (さい)だにあらば男立身(おとこりッしん)(おもひ)のままなる(ごと)く、女は色をもて富貴(ふうき)()べしと信じたり。

 (なほ)彼は(いろ)()て富貴を()たる人たちの若干(そくばく)を見たりしに、其容(そのかたち)(おのれ)(しか)ざるものの多きを見出(みいだ)せり。

 (あまつさ)へ彼は行く所に其美(そのうつく)しさを(うた)はれざるはあらざりき。

 尚一件(なほひとつ)(もッと)も彼の()を強うせし事あり。

 そは彼が十七の(とし)に起りし事なり。


 【意訳】

  前編 第三章   〔その22〕   ―― ミヤの躊躇(ためら)い <女ごころ> ――


 貫一は勉強熱心な上に、性質も良いので、これで帝大を卒業して学士を戴いたならば、

鴫沢家の婿(むこ)には勿体無(もったいな)いくらいかも、と夫婦は内心喜んでいた。

 貫一の方は、財産を譲られるとしても、婿入りして姓を変えるのは屈辱だと思っていた。

 しかし、美しいミヤを妻にできるのならば、我慢できる、と、逆に夫婦より内心喜んで、ますます勉学に励んだ。

 ミヤは、貫一を嫌ではなかったが、彼の想いの半分も好きでは無かった。

 なぜなら、彼女は自分自身の美しさの価値を充分認識していたからだ。

 自分の家の僅かな財産を受け継ぎ、学士を夫に持つ程度では、不満だった。

 貴人の奥方が、元は低い身分だった例が多く、夫は、醜い妻を嫌い、美しい妾を囲うことも知っていた。

 男が才能で立身出世するように、女は容姿で財産や身分を得るものだと信じていた。

 しかも、自分より劣る容姿の女が、成功している例が多いのを見ている。

 ミヤは行く所、行く所で美しさを誉められるので、大いに自信を持っていたのだ。


 さらに一つ、最も彼女の意を強くした出来事があった。

 それは彼女が十七歳のときに起きた事だ。


 【語彙解説】  註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。


〇學士の冠(かんむり) ・・・ 当時の帝国大学(現・東京大学)の極めて少数の卒業生に与えられる学士の称号。

〇他姓(たせい)を冒(おか)す ・・・ 改姓して、その姓を名乗る。他家を継ぐ。

〇憎(にく)からず思へり ・・・ 好感や親近感を抱くこと。

〇色好(いろよ)き ・・・ 容姿が美しいこと。

〇微賤(びせん) ・・・ 身分が低く、いやしいこと。卑賤(ひせん)。

〇若干/幾許(そくばく/そこばく) ・・・ 1.いくつか。 2.たくさん。はなはだ。

〇唱(うた)う ・・・ 抑揚をつけずに声に出して読む。となえる。

〇そは/其は ・・・ それは。


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