『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その21 ―― 貫一の生い立ち ――
【還暦ジジイの解説】
当時、東京で高等中学校は「第一高等中学校」のことで明治27年に「第一高等学校」と改称され、旧制高校のトップに位置づけられていた。
貫一は九月に大学へ進学することになっているが、当時、大学は帝国大学と呼び、一つしかなかった。
現在の東京大学である。この帝大の卒業生は極めて少なく、彼らには「学士」の称号が与えられた。
すなわち、国家を支える超エリートのお墨付きを貰えたのである。
【現代口語訳】
前編 第三章 〔その21〕
故人(貫一の父)が常に言っていたのは、苟も侍の家に生れたというのに、我が子の貫一が他人に侮られたら、何の面目があるだろうか。
この子は学士に育て、願くは再び人の上に立たせたい。
貫一は絶えずこの言葉をもって戒められ、隆三も会う毎にこの言葉を聞かされた。
彼はもの言い残す時すら無く急死したが、その前、常に口にしたのは明らかに彼の遺言となるに違いない。
そのため貫一が鴫沢家における境遇では、決して厄介者として陰で疎まれるような憂目に遭うことはなかった。
なまじ継子などに生れるより、こうした存在のほうがどんなに幸せだろうか、と、知る人は噂し合った。
隆三夫婦は実に彼を恩人の忘れ形見として、疎かにせずに取り扱った。
これほどに彼の愛されるのを見て、彼等は貫一をば娘の婿にしようとするのに違いないと思う者もあり、
当時の彼等には特にそのような考えがあったわけではなかった、貫一の勉強熱心なのを見ているうちに、次第にその心が出て来て、
彼の高等中学校に入った時、彼等の気持ちは初めて定まった。
【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第三章 〔その21〕
亡き人常に言ひけるは、苟くも侍の家に生れながら、何の面目ありて我子貫一をも人に侮らすべきや。
彼は學士となして、願くは再び四民の上に立たしめん。
貫一は不斷に此言を以て警められ、隆三は會ふ毎に亦此言を以て喞たれしなり。
彼は言ふ遑だに無くて暴に歿りけれども、其の前常に口にせしところは明かに彼の遺言なるべきのみ。
然れば貫一が鴫澤の家内に於ける境遇は、決して厄介者として陰かに疎まるる如き憂目に遭ふにはあらざりき。
憖ひ繼子などに生れたらんよりは、恁て在りなんこそ幾許か幸は多からんよ、と知る人は噂し合へり。
隆三夫婦は實に彼を恩人の忘形見として疎ならず取扱ひけるなり。
然ばかり彼の愛せらるるを見て、彼等は貫一をば娘の婿にせむとすならんと想へる者もありしかど、
當時彼等は構へて然る心ありしにはあらざりけるも、彼の篤學なるを見るに及びて、漸く其心は出で來て、
彼の高等中学校に入りし時、彼等の了簡は始めて定りぬ。
【意訳】
前編 第三章 〔その21〕 ―― 貫一の生い立ち ――
貫一の亡父は、仮にも士族の子なのだから、決して他人に侮られてはいけない、と言うのが口癖だった。
貫一には「学士に成り、人の上に立て!」と戒め、隆三にも会う度に話していた。
彼は急死したので、これが遺言となった。
貫一は、隆三夫婦に恩人の忘れ形見として大切にされたので、実に幸せな境遇だった。
その上、高等中学校に入学を果したので、夫婦は彼を見直し、娘のミヤの婿として迎えるまでに将来を期待した。
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇苟(いやしく)も ・・・ 仮にも。かりそめにも。
〇四民(しみん)の上(かみ) ・・・ 四民とは士農工商で、その上なので、上級官僚や政治家を指す。
〇繼子/継子(ままこ/けいし) ・・・ 親子の関係にはあるが、血のつながっていない子。実子でない子。
〇了簡/料簡/了見(れうけん/りょうけん) ・・・ 考え。思慮。分別。
〇高等中学 ・・・ 上記「還暦ジジイの解説」を参照。