『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その20 ―― 貫一の生い立ち ――
【還暦ジジイの解説】
貫一の年齢は、数えの二十四歳で設定されている。現在の学校制度から考えると、留年組か?と疑うところだ。
明治時代の学校制度は、小学校(6~8年)、尋常中学校(5年)、高等中学校の予科(3年)・本科(2年)、大学(3年)と進むのがエリートコースで、進学のペースは様々。飛び級もあった。
当時東京で高等中学校と言えば第一高等学校しかなく、数えの二十四五歳で卒業は標準的な年齢であった。
そして、進学する予定の大学は、帝国大学(現在の東京大学)で卒業の頃は、二十七八歳。
卒業生は極めて少なく、「学士」の称号が与えられた。
すなわち、貫一は、超エリート候補だったのである。
因に、尾崎紅葉も帝国大学に学び、二十二歳で卒業。夏目漱石、正岡子規も同い年で二人は二十四歳で卒業している。
すなわち、紅葉は、秀才だったのである。
【現代口語訳】
前編 第三章 〔その20〕
第三章
間貫一が十年来鴫沢の家に身を寄せているのは、頼る所がなく養われているのである。
母は彼の幼い頃に世を去り、父は彼が尋常中学を卒業するを見ずに病死したので、
彼は嘆きの中に父を葬るとともに、自分の前途の望み葬らざるを得ない不幸に遭った。
父の存命中でも月謝の支出の血を絞るばかりに苦しき貧しい暮らしであったものを、当時彼はまだ十五歳だというのに、
間家の主は学ぶより先に食べていく必要に迫られた。
幼き主は、学ぶに先立って食べていく必要、食べていくに先立って葬儀の必要、さらに先立って看護と医薬の必要があったのではないか。
自活することもできない幼い者が、どうしてこれ等の急を救われたのか。
言うまでもなく貫一の力でできるはずもなく、鴫沢隆三の一身に引き受けて万端の世話をしたことによっていた。
孤児の父は、鴫沢隆三の恩人で、彼は少しながら、その旧恩に報いるために、ただ病気の時に扶助をするだけでなく、
常に心に留めて貫一の月謝をも時々面倒みていた。
こうして貧しい父を亡った孤児は豊かな後見を得て鴫沢の家に引取られた。
隆三は恩人に報いるのに、その短い生涯の間だけでは充分ではないと思ったので、
何にせよその忘れ形見を優れた人物に育て、彼が一日も忘れなかった意志を継ごうとしたのだった。
【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第三章 〔その20〕
第三章
間貫一の十年莱鴫澤の家に寄寓せるは、怙る所無くて養はるるなり。
母は彼の幼かりし頃世を去りて、父は彼の尋常中學を卒業するを見るに及ばずして病死せしより、
彼は哀嘆の中に父を葬るとともに、己が前途の望をさへ葬らざる可からざる不幸に遭へり。
父在りし日さへ月謝の支出の血を絞るばかりに苦き痩世帶なりけるを、當時彼尚十五歳ながら間の戸主は
學ぶに先ちて食ふべき急に迫られぬ。
幼き戸主の學ぶに先ちては食ふべきの急、食ふべきに先ちては葬すべき急、猶之に先ちては看護醫薬の急ありしにあらずや。
自活すべくもあらぬ幼き者の如何にして是等の急を救得しか。
固より貫一が力の能ふべきにあらず、鴫澤隆三の身一個に引承けて萬端の世話せしに因るなり。
孤兒の父は隆三の恩人にて、彼は聊か其舊徳に報ゆるが爲に、啻に其病めりし時に扶助せしのみならず、
常に心着けては貫一の月謝をさへ間支辨したり。
恁くて貧き父を亡ひし孤兒は富める後見を得て鴫澤の家に引取られぬ。
隆三は恩人に報ゆるに其短き生時を以て慊らず思ひければ、左右は其忘形見を天晴人と成して、
彼の一日も忘れざりし志を繼がんとせるなり。
【意訳】
前編 第三章 〔その20〕 ―― 貫一の生い立ち ――
第三章
間貫一は、幼い頃に母を喪い、尋常中学を卒業する前に父が病死して、頼る所がなく鴫沢家で、ここ十年、養って貰っている。
鴫沢隆三は、貫一の父への恩に報いるために、彼が病気の時に扶助をするだけでなく、貫一の月謝も面倒みていた。
さらに亡くなった後も、息子を家に引き取り、優れた人物に育て、意志を継ごうとしたのだった。
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇寄寓(きぐう) ・・・ 一時的によその家に身を寄せて世話になること。また、仮の住まい。寓居。
〇痩世帯/痩所帯(やせじよたい/やせじょたい/やせせたい) ・・・ 貧しい暮らし。貧乏世帯。
〇舊徳/旧徳(きゆうとく/きゅうとく) ・・・ 以前に施した徳や恵み。
〇支辨/支弁(しべん) ・・・ 金銭を支払うこと。
〇孤兒/孤児(みなしご/こじ) ・・・ 親のない子。「身無し子(みなしご)」身寄りのない子供の意。
〇慊(あきた)らず ・・・ 「飽(あ)き足(た)らず」に同じ。十分に満足しないこと。