『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その18 ― カルタ会の帰り ―
【還暦ジジイの解説】
『金色夜叉』の第一話が連載されたのは明治30年(1897年)元旦。
ラジオもテレビも、ましてやパソコンもスマートホンも無い時代です。
世の中のことを知るのは、新聞だけだったと言っても過言ではなく、老若男女を問わず、新聞は隅から隅まで、丹念に読む必読の媒体だった。
そんな中で、この連載小説は、目新しい文体と、目新しい恋愛観が、人気を博したのだろうと想像します。
追記: ラジオが世界に初めて登場したのが1900年。日本で初めてラジオの実験放送が行われのが大正14年(1924年)で、
瞬く間に普及したものの、一年後に全国で漸く20万台に達した程度です。一般家庭に一家一台までに普及するのは、
それから十数年後の昭和15年(1940年)頃。そして、テレビが一家に一台まで普及したのは昭和40年(1965年)頃です。
【現代口語訳】
前編 第二章 〔その18〕
ミヤは鳩羽鼠の頭巾を被って、濃浅黄地に白く中形模様ある毛織のショールをまとひ、
学生は焦茶のオーバーコートを着、身をすぼめて吹来る木枯らしをやり過しながら、遅れて来るミヤを待って言い出した。
「ミイさん、あのダイアモンドの指輪をはめていた奴はどうだい、嫌に気取った奴じゃないか」
「そうねえ、だけれど皆があの人を目の敵にして乱暴するので気の毒だったわ。
隣り合っていたもんだから私まで酷い目に遭されてよ」
「うん、あいつが高慢な顔をしているからさ。実は僕も横腹を二つばかり小突いてやった」
「まあ、酷いのね」
「ああいう奴は男の目から見ると反吐が出るようだけれど、女にはどうだろうね、あんなのが女の気に入るのじゃないか」
「私は嫌だわ」
「プンプンと香水の匂いがして、ダイアモンドの金の指輪をはめて、殿様みたいな服装をして、いいに違いないさ」
学生は嘲けるように笑った。
「私は嫌よ」
「嫌なものが組になるものか」
「組はクジだから仕方がないわ」
「クジだけれど、組になって嫌そうな様子も見えなかったもの」
「そんな無理な事を言って!」
「三百円のダイヤモンドじゃ到底僕らの及ぶところにあらずだ」
「知らない!」
ミヤはショールを揺り上げて鼻の半ばまで覆い隠した。
クリックすると拡大します
【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第二章 〔その18〕
宮は鳩羽鼠の頭巾を被りて、濃浅黄地に白く中形模様ある毛織のシォールを絡ひ、
学生は焦茶の外套を着たるが、身を窄めて吹来る凩を遣過しつつ、遅れし宮の辿着くを待ちて言出せり。
「宮さん、あの金剛石の指環を穿てゐた奴はどうだい、可厭に気取つた奴ぢやないか。」
「さうねえ、だけれど衆があの人を目の敵にして乱暴するので気の毒だつたわ。
隣合つてゐたもんだから私まで酷い目に遭されてよ。」
「うむ、彼奴が高慢な顔をしてゐるからさ。実は僕も横腹を二つばかり突いて遣つた。」
「まあ、酷いのね。」
「ああ云ふ奴は男の目から見ると反吐が出るやうだけれど、女にはどうだらうね、あんなのが女の気に入るのぢやないか。」
「私は可厭だわ。」
「芬々と香水の匂がして、金剛石の金の指環を穿めて、殿様然たる服装をして、好いに違無いさ。」
学生は嘲むが如く笑へり。
「私は可厭よ。」
「可厭なものが組になるものか。」
「組は鬮だから為方が無いわ。」
「鬮だけれど、組に成つて可厭さうな様子も見えなかつたもの。」
「そんな無理な事を言つて!」
「三百円の金剛石ぢや到底僕等の及ぶところにあらずだ。」
「知らない!」
宮はシォールを揺上て鼻の半まで掩隠しつ。
【意訳】
前編 第二章 〔その18〕 ―― カルタ会の帰り ――
オーバーコートを着た学生は、毛織のショールをまったミヤを待って言い出した。
「ミイさん、あのダイヤモンドの奴はどうだい、嫌に気取った奴だったね」
「そうね。だけど、皆があの人を目の敵にして乱暴するから、ちょっと可哀想だったわ。隣に居た私まで酷い目に遭ったのよ」
「ふん!高慢な顔をした彼奴が悪いのさ。実は僕も横っ腹を二つばかり小突いてやった」
「まあ、酷いのね」
「ああいう奴は男の目から見ると反吐が出そうだけど、女から見るとどうなんだ?あんな奴が人気があるんじゃないか」
「私は嫌だわ」
「プンプンと香水の匂いをさせて、ダイヤモンドの指輪なんかはめやがって、殿様みたいな服装をして・・・。うん、あれは女に人気があるな」
学生はさも馬鹿にしたように笑った。
「私は嫌だって言ってるでしょ」
「本当に嫌ならペアを組むはずがない」
「クジだったんだから仕方ないじゃない」
「クジだけれど、ペアになっても、嫌そうな顔をしてなかったぞ」
「そんな無理なことを言って!」
「三百円のダイヤモンドじゃ、どうやっても僕らの手に届くもんじゃないもんなぁ」
「知らない!」
ミヤはショールを揺り上げて鼻を半分くらい覆い隠した。
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇鳩羽鼠(はとばねずみ)の頭巾(ずきん) ・・・ 紫をおびたねずみ色の頭巾。いわゆる御高祖頭巾で、防寒用。
クリックすると拡大します
〇濃浅黄地(こいあさぎぢ) ・・・ 「浅黄地」は地の色がねずみ色。「濃い」となると、うすい青色。
〇中形模様(ちゅうがたもよう) ・・・ 中ぐらいの大きさの模様。このショールは、宮のセンスを表わしている。
〇嘲(あざ)むが如く ・・・ 嘲けるかのように。
〇鬮/籤(くじ) ・・・ 「神社のくじ」や「宝くじ」などの「くじ」。紙片や竹片などに文句や記号を記し、その一つを抜き取って、事の成否や吉凶を判断したり、当落・順番などを決めたりする方法。また、その紙片・竹片など。