『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その16 ―― ダイヤの指輪 ――
【現代口語訳】
前編 第一章 (一)の二 〔その16〕
富山は事も無げに、
「なあに、宜しい」
「宜しいではございません。純金では大変でございます」
「なあに、いいと言うのに」と聞き終る前に、彼女は広間の方へ出て行った。
「時に彼女(ミヤ)の身分はどうかね」
「さよう、悪い事はございませんが・・・」
「が、どうしたのさ」
「が、大した事はございませんです」
「それはそうだろう。しかし、およそどんなものかね」
「もとは農商務省に勤めてをりましたが、今では不動産の収入などで暮しているようでございます。
多少は小金も有るような話で、鴫沢隆三と申して、すぐ隣町に住んで居りますが、ごく手堅く地味に暮らしているのでございます」
「はあ、知れたものだね」
自分の下顎を撫でると、例のダイアモンドはキラリと光った。
「それでもいいさ。しかし、嫁にくれるだろうか、跡取りじゃないかい」
「さよう、一人娘のように思いましたが」
「それじゃ困るじゃないか」
「私は詳しい事は存じませんから、一つ聞いて見ましょう」
程無く内儀は環を探しあてて帰って来たが、誰の悪戯か耳掻きのように引き伸ばされていた。
主は彼女に向ってミヤの家の様子を訊ねると、知っている一通りのことは語ったが、娘はなお良く知っているだろうと、
後で呼んで聴こうとということで、夫婦はしきりに杯を勧めた。
富山唯継が、今夜ここに来たのは、年賀ではなく、カルタ遊びでなく、娘が多く集まる機会に、嫁選びをしようとしてのことだった。
彼は一昨年、イギリスより帰国するやいなや、方々に手分けして嫁を求めたのだが、
美しさの望みが甚しいので、二十数件の縁談は全て意に叶わず、今日の日までもなほその事に齷齪して終ることがなかった。
当時取急ぎ建てた芝の新居は、いまだ人が住み着くことなく、早くも陽に黒ずみ、一部は雨で朽ち、
薄暗い一間で留守番の老夫婦が、額を寄せ合って、寂しげに彼らの昔を語るだけなのだった。
【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第一章 (一)の二 〔その16〕
富山は事も無げに、
「何爲、宜い。」
「宜いではございません。純金では大變でございます。」
「何爲、可いと言ふのに」と聞きも訖らで彼は廣間の方へ出でて行けり。
「時に彼の身分は如何かね。」
「然やう、惡い事はございませんが・・・」
「が、如何したのさ。」
「が、大した事はございませんです。」
「それは然うだらう。然し凡そ甚麼ものかね。」
「舊は農商務省に勤めて居りましたが、唯今では地所や家作などで暮して居るやうでございます。
如何か小金も有るやうな話で、鴫澤隆三と申して、直隣町に居りまするが、極手堅く小體に遣つて居るのでございます。」
「はあ、知れたもんだね。」
我は顔に頤を搔撫づれば、例の金剛石は燦然と光れり。
「それでも可いさ。然し嫁れやうか、嗣子ぢやないかい」
「然やう、一人娘のやうに思ひましたが。」
「それぢや窮るぢやないか。」
「私は悉い事は存じませんから、一つ聞いて見ませうで。」
程無く内儀は環を捜得て歸來にけるが、誰が惡戯とも知らで耳掻の如く引展されたり。
主は彼に向ひて宮の家内の樣子を訊ねけるに、知れる一遍は語りけれど、娘は猶能く知るらんを、
後に招きて聽くべしとて、夫婦は頻に觴を侑めけり。
富山唯繼の今宵此に來りしは、年賀にあらず、骨牌遊びにあらず、娘の多く聚れるを機として、嫁選せんとてなり。
彼は一昨年の冬英吉利より歸朝するや否や、八方に手分して嫁を求めけれども、
器量望の太甚しければ、二十餘件の縁談皆意に稱はで、今日が日までも仍其事に齷齪して已まざるなり。
當時取急ぎて普請せし芝の新宅は、未だ人の住着かざるに、はや日に黒み、或所は雨に朽ちて、
薄暗き一間に留守居の老夫婦の額を鳩めては、寂しげに彼等の昔を語るのみ。
【意訳】
前編 第一章 (一)の二 〔その16〕 ―― ダイヤの指輪 ――
富山唯継は事も無げに、「なあに、宜しい」
「宜しいではございません。純金では大変でございます」
と言って内儀は広間の方へ出て行った。
「時に彼女(ミヤ)の身分はどうかね」
「さよう、悪くはありませんが、大した事はございません」と、主の箕輪亮輔。
「それはそうだろう」
「ミヤの父・鴫沢隆三は、昔、農商務省に勤めておりましたが、今では不動産収入で堅実に暮しているようです。」
「まあ、知れたものだね」
富山は下顎を撫でながら、ダイアの指輪をキラリと光らせた。
「それでもいいが、嫁にくれるかなあ。婿取りする積りじゃないか?。それだと困るなあ」
暫くすると、内儀は環を持って帰って来た。
主は彼女に向ってミヤの家の様子を訊ねると、娘のお俊が、良く知っているから、後で聴こうということになった。
富山が、今夜ここに来たのは、嫁探しが目的だった。
彼は一昨年、イギリスより帰国すると、方々に嫁を求めたのだが、望みが高く、二十数件の縁談は全て断っていたのだ。
取急ぎ建てた新居は、いまだ人が住み着くことなく、早くも黒ずみ、一部は雨で朽ちていた。
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇甚麼(どんな) ・・・ どんな。そんな。なに。なにか?。
〇舊/旧(もと) ・・・ もとから。昔から。以前から。
〇農商務省(のうしょうむしょう) ・・・ 明治14年(1881年)4月に設置された農林、商工行政を司った中央官庁。