『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その15 ―― ダイヤの指輪 ――
【現代口語訳】
前編 第一章 (一)の二 〔その15〕
「ところがもう一遍行って見ようかとも思うなあ」
「へえ、またいらっしゃいますか」
物は言わずに笑う富山の顎はいよいよ広がっていた。
早くもその意を得て顔をほころばせた主の目は、ススキの切り傷のように、ほとんど有るか無いかになった。
「では御意に召したのが、へえ?」
富山はますます笑みをたたえていた。
「ございましたでしょう、そうでございましょうとも」
「なぜか」
「なぜも無いものでございます。誰もが見るところじゃあございませんか」
富山は頷きつつ、
「そうだらうね」
「あれは、よろしゅうございましょう」
「ちょいと好いね」
「まずそのおつもりで、お熱いところをお一つ。気難しい貴方が、ちょいと好いとおっしゃる位では、
よっぽどの優れたものだと思わなければなりません。滅多にないことでございます」
あたふた入って来た内儀は思いもかけずに富山を見て、
「おや、こちらにおいで遊ばしたのでございますか」
彼女は先ほどから台所に詰っきりで、休憩時の食べ物の指図などをしていたのだった。
「ひどく負けて、逃げて来ました」
「それはよく逃げていらっしゃいました」
例の歪んだ口をすぼめて、内儀はそらぞらしく笑ったが、たちまち、彼の羽織の紐の片方が千切れているのを見とがめ、
環がなくなったと知ると、あわて驚いて立とうとした。
なぜならその環は純金製のものだったからだ。
【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第一章 (一)の二 〔その15〕
「所が最一遍行つて見やうかとも思ふの。」
「へえ、又被入いますか。」
物は言はで打笑める富山の腮は愈展れり。
早くも其意を得てや破顔せる主の目は、
薄の切疵の如く幾と有か無きかになりぬ。
「では御意に召したのが、へえ?」
富山は益笑みを湛へたり。
「ございましたらう、然うでございませうとも。」
「何故な。」
「何故も無いものでございます。十目の見る所ぢやございませんか。」
富山は頷きつつ、
「然うだらうね。」
「彼は宜うございませう。」
「一寸好いね」
「まづ其の御意でお熱い所をお一盞。不滿家の貴方が一寸好いと有仰る位では、
餘程尤物と思はなければなりません。全く寡うございます。」
倉皇入來たれる内儀は思ひも懸けず富山を見て、
「おや、此方にお在あそばしたのでございますか。」
彼は先の程より臺所に詰切りて、中入の食物の指圖などしてゐたるなりき。
「酷く負けて迯げて來ました」
「それは好く迯げて被入いました。」
例の歪める口を窄めて内儀は空々しく笑ひしが、忽ち彼の羽織の紐の偏斷れたるを見尤て、
環の失せたりと知るより、慌て驚きて起んとせり、如何にとなれば其環は純金製のものなればなり。
【意訳】
前編 第一章 (一)の二 〔その15〕 ―― ダイヤの指輪 ――
「もう一度、広間へ行こうと思う」
「へえ、またいらっしゃるんで?」
富山は、黙って薄笑いしていた。
その意を察した主の亮輔も、顔をほころばせて、
「ではお眼鏡に適った女の子が?」
「うん?わかるか?」
「誰が見ても・・・じゃあございませんか」
「ふん、そうか。まあ、そうだろうなあ。あれは、好いね」
「お目のお高いあなた様ですから、よほどお気に召したんですねえ」
そこへ、内儀があたふたと入って来て、
「おや、こちらにおいで遊ばしたのでございますか」
彼女は先刻から台所で忙しくしていたのだが、富山の羽織の紐の環が無くなっているのを見付けると、慌てて立とうとした。
なぜならその環は純金製のものだったからだ。
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇腮(あぎと) ・・・ あご。
〇十目(じふもく/じゅうもく)の見る所 ・・・ 10人が10人みなそう認めるところ。多くの人の判断や意見が一致すること。「衆目の一致するところ」とも言う。 「十目所視、十手所指、其厳乎」(「礼記‐大学」より)
〇お一盞(ひとつ) ・・・ 「一盞(いっさん)」とも読む。一つのさかずき。一杯の酒。芸者などが「おひとつどうぞ」と言ってお酌をするときに使う。
〇尤物(まれもの/ゆうぶつ ) ・・・ 「まれもの」(稀者)の当て字。「尤物」の意味は、「美しい女性。美女。美人。素敵な美人。」で、「まれもの」と読ませて「類まれな美人」の意味としているのだろう。
〇倉皇(あたふた) ・・・ あわてふためくさま。あわただしいさま。
〇迯(に)げる ・・・ 逃げる。立ち去る。