『金色夜叉』(こんじきやしゃ)  その14    ―― ダイヤの指輪 ――


 【還暦ジジイの解説】


 現代口語では、男性は「彼」、女性は「彼女」と分けているが、旧かな遣いでは、両方とも「彼」と表記する。

 現代口語に馴れている私は、面食らって、「彼」が一体誰を指しているのか解らない場合がある。


 【現代口語訳】

  前編 第一章  (一)の二  〔その14〕


 (かつら)(かぶ)ったかのように整えられていた富山の髪は、棕櫚帚(しゅろぼうき)のように乱れて、()の片方がもげた羽織の紐は、

手長猿が月を捕まえようとする形でぶらぶらと下っていた。

 (あるじ)は見るなりさも慌てた顔をして、

 「どう遊ばしました。おお、お手から血が出ております。」

 彼はやにわに煙管を捨て、おろそかにはできないと慌てて身を起こした。

 「ああ、(ひど)い目に()つた。どうもああ乱暴ではしようがない。火事装束(かじしやうそく)ででも出掛けなくてはとてもいられないよ。馬鹿にしている!頭を二つばかりぶたれた。」

 手の甲の血を吸いつつ富山は不快な面持ちで設けられた席に着いた。

 (あらかじ)め用意してあったので、海老茶の紋縮緬(もんちりめん)座布団(ざぶとん)(かたわ)らに七宝焼(しちほうやき)で小判形の大手(あぶ)り、蒔絵(まきえ)の吸物膳も置かれていた。

 主は手を打ち鳴らして下働きの女を呼び、大急ぎに銚子(ちょうし)と料理を(あつら)えさせた。

 「それはどうも飛んでもない事を。ほかにどこもお怪我はございませんでしたか」

 「そんなにあってたまるものかね」

 どうしようもなく、(あるじ)も苦笑いしてしまった。

 「ただいま絆創膏(ばんそうこう)差上(さしあ)げます。何しろ(みな)書生でございますから随分乱暴(ずゐぶんらんぼう)でございましよう。

わざわざ御招き申しまして、(はなは)恐入(おそれい)りました。もうあっちへは御出陣にならんが(よろし)うございます。

何もございませんが、ここでどうぞごゆるり」



 【原文】  註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。

  前編 第一章  (一)の二  〔その14〕


 (かつら)()たるやうに(くしけづ)りたりし彼の髪は棕櫚箒(しゆろばうき)の如く(みだ)れて、(くわん)(かたかた)()げたる羽織の紐は、

手長猿(てながざる)の月を(とら)へんとする(かたち)して揺曳(ぶらぶら)(さが)れり。

 (あるじ)は見るより()も慌てたる顔して、

 「どう遊ばしました。おお、お手から血が出て()ります。」

 彼は矢庭(やには)煙管(きせる)を捨てて、(ゆるがせ)にすべからざらんやうに急遽(とつかは)と身を起せり。

 「ああ、(ひど)い目に()つた。どうも那樣亂暴(ああらんぼう)ぢや爲樣(しよう)が無い。火事装束(かじしやうそく)ででも出掛けなくつちや(とて)も立切れないよ。

馬鹿にしてゐる!頭を二つばかり(ぶた)れた。」

 手の(かう)の血を()ひつつ富山(とみやま)は不快なる面色(おももち)して(まうけ)の席に着きぬ。

 (かね)て用意したれば、海老茶(えびちや)紋縮緬(もんちりめん)(しとね)の傍に七寶焼(しちはうやき)の小判形の大手爐(おおてあぶり)を置きて、蒔繪(まきえ)の吸物膳をさへ()ゑたるなり。

 主は手を打鳴して(をんな)を呼び、大急(おほいそぎ)に銚子と料理とを(あつら)へて、

 「それは如何(どう)(とん)でもない事を。(ほか)何處(どこ)もお怪我(けが)はございませんでしたか。」

 「那樣(そんな)に有られて(たま)るものかね。」

 ()事無(ことな)さに主も苦笑(にがわらひ)せり。

 「唯今(ただいま)絆創膏を差上(さしあ)げます。何しろ(みな)書生でございますから随分亂暴(ずゐぶんらんぼう)でございませう。

故々(わざわざ)御招(おまねき)申しまして(はなは)恐入(おそれい)りました。もう彼地(あつち)へは御出陣にならんが(よろし)うございます。

何もございませんが(ここ)で何卒御寛(ごゆる)り。」


 【意訳】

  前編 第一章  (一)の二  〔その14〕    ―― ダイヤの指輪 ――


 富山の髪は乱れて、(かん)の片方がもげて羽織の紐がぶらぶらと下っていた。

 主の亮輔は、見るなり慌てて身を起こして、

 「どう遊ばしました。おお、お手から血が出ております。」

 「ああ、(ひど)い目に()った。乱暴きわまる。頭を二つばかりぶたれた。」

 手の甲の血を吸いつつ富山は不快げに席に着いた。

 (あらかじ)め用意されていた座布団のそばに大火鉢を置き、お膳も据えられてある。

 主は手を打って女中を呼び、急ぎに銚子と料理を命じて、

 「それはどうも飛んでもないことを。ほかにお怪我は?」

 「そんなにあってたまるものかね」

 しょうことなしに、主の亮輔も苦笑いして、

 「ただいま絆創膏を。何しろ(みな)書生でございますから。わざわざ御招きしたのに、恐れ入りました。何もございませんが、ここでどうぞごゆっくり。もうあちらへは、いらっしゃらぬほうが」


 【語彙解説】  註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。


〇棕櫚箒(しゆろばうき/しゅろぼうき) ・・・ 棕櫚(しゅろ)の木の幹の皮を穂先の素材に使った和箒(わぼうき)

  クリックすると拡大します


〇環(くわん/かん) ・・・ 輪(わ)。

〇隻(かたかた) ・・・ かたわれ。片方(かたほう)片一方(かたいっぽう)

〇捥(も)げる ・・・ もぎ取られる。

〇急遽(とつかは/とつかわ) ・・・ 急遽は、「とつかわ」の当て字。「とつかわ」の意味は、急遽(きゅうきょ)と同じ。あわて急ぐさま。せかせかするさまを表わす。

〇裀(しとね) ・・・ 敷物。座布団。

〇七寶焼(しちほうやき/しっぽうやき) ・・・ 金属とガラスの合体工芸の一種で、その伝統工芸技法および作品のことを指す。
金属を素地にした焼き物ともいえる。

〇婢(をんな/おんな) ・・・ 召使の女。下働きの女。はしため。下女。

〇那樣/那様(そんな) ・・・ 「そのような」の意味。


 次ページ   前ページ      索引    TOP-s