『金色夜叉』(こんじきやしゃ)  その13    ―― ダイヤの指輪 ――


 【還暦ジジイの解説】


 当時、一般家庭でダイアモンドの指輪を目にすることは極めて珍しかった。

 このころ指輪は懐中時計と並んで紳士のハイカラな装身具として圧倒的な人気を誇っていた。

 富山唯継は、当時ごく一部の人しかできなかった洋行を経験している。

 ダイアモンドが一般的に有名になったのは、この新聞小説が大きく影響した。

 なお、三百円のダイアモンドは、当時では大変な金額であったが、もうちょっと金額を大きくした方が良かったんじゃないかと、

辛口の批評も残っている。


 【現代口語訳】

  前編 第一章  (一)の二  〔その13〕


 男たちは、女がこぞってダイアモンドに心惹かれる様子を、妬ましく、あるいは浅ましく思い、興ざめしていた。

 ただひとり、ミヤだけは騒ぐ様子がなく、涼しげな眼差しで嗜み深く振舞っていた。

 ミヤを崇拝する男達は喜んで、俺たちが慕うだけの価値があると、こうなればお宮を奉じて尽くし、

美と富の勝負の一騎打ちで富山の憎い面の皮をひん剥いてやろうじゃないかと、手ぐすね引いていた。

 お宮と富山の勢力は、まるで太陽と月を並べたようだった。

 カルタ取りでお宮が誰とグループを組み、富山が誰と組むかが、皆の一番の関心事だった。

 クジの結果は驚くべき予想外で、皆が同じグループを狙った紳士と美女は、他の三人とともに同じ組になってしまった。

 おかげで、はじめは二手に分かれて輪を作っていたことも忘れ去られ、合併してひとつの大きな輪ができた。

 しかも富山とお宮は隣り合わせに座ったものだから、昼と夜が同時に来たかのように皆はうろたえ騒ぐ。

 たちまちその隣に「社会党」と名乗るペアが現れた。

 社会党の主義主張は不平を言うことで、目的は破壊だった。

 無理矢理にでも腕尽くで、そのグループの幸福と平穏を妨害しようとするありさまだ。

 さらにその正面のグループは一人の女性に内側の守りを任せ、屈強の男四人が左右に分かれて遠征軍を結成。

 左側を攻めるのが「狼藉(ろうぜき)組」、右が「蹂躙(じゅうりん)隊」と名乗っていたが、その実態はダイアモンド男の鼻柱(はなっぱしら)をへし折ろうと必死になってるに過ぎない。

 予想通りと言うか、富山とお宮の組はボロ負けし、傍若無人な富山もさすがにつまらなそうな顔をした。

 お宮も顔を赤らめている。

 面目を失い、じっと座っているのに耐えきれなかったのか、富山の姿はいつの間にか無くなっていた。

 男たちはバンザイを唱えたけれど、女の中にはがっかりした者も多い。

 散々にいたぶられ、狼藉され、蹂躙された富山は、余りもの非文明的なこのゲームに恐れをなして、

そっと主人の居るリビングに逃げ戻ったのである。



 【原文】  註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。

  前編 第一章  (一)の二  〔その13〕


 男たちは(おのづ)から(すさ)められて、女の(こぞ)りて金剛石(ダイヤモンド)心牽(こころひか)さるる氣色(けしき)なるを、

(あるひ)(ねた)、或は浅ましく、多少の興を(さま)さざるはあらざりけり。

 (ひと)り宮のみは騒げる(てい)も無くて、その(すずし)眼色(まなざし)はさしもの金剛石(ダイヤモンド)と光を(あらそ)はんやうに、

用意深(たしなみぶか)く、心樣(こころざま)(ゆかし)く振舞へるを、崇拜者(すうはいしや)は益々(よろこ)びて、我等の慕ひ参らする(かひ)はあるよ、

(ひとへ)にこの君を奉じて孤忠(こちゆう)を全うし、美と富との勝負を唯一戦に決して、

紳士の憎き(つら)の皮を引剝(ひきむ)かん、と手藥煉(てぐすね)引いて待ちかけたり。

 されば宮と富山との(いきほひ)はあたかも日月(じつげつ)並懸(ならべか)けたるやうなり。

 宮は(たれ)と組み、富山は誰と組むらんとは、人々の最も懸念(けねん)するところなりけるが、

 (くじ)の結果は驚くべき予想外にて、目指されし紳士と美人とは他の三人(みたり)とともに一組になりぬ。

 始め二つに輪作りし人数(にんず)はこの時合併して(いつ)(おほい)なる團欒(まどゐ)に成されたるなり。

 しかも富山と宮とは隣合(となりあひ)に坐りければ、夜と昼との一時(いちじ)に來にけんやうに皆狼狽(うろたへ)騒ぎて、

(たちま)ちその隣に自ら社会党と(とな)ふる一組を(いだ)せり。

 彼等の主義は不平にして、その目的は破壊なり。

 (すなは)ち彼等は(もつぱ)ら腕力を用ゐて或組の果報と安寧(あんねい)とを妨害せんと為るなり。

 又その前面(むかひ)には一人の女に内を守らしめて、屈強の男四人左右に遠征軍を組織し、

左翼を狼藉組(ろうぜきぐみ)と称し、右翼を蹂躙隊(じゆうりんたい)と称するも、実は金剛石の鼻柱を(くじ)かんと大童(おほわらは)になれるに(ほか)ならざるなり。

 果せる(かな)(くだん)の組はこの勝負に(きたな)き大敗を取りて、人も無げなる紳士もさすがに鼻白(はなしろ)

美き人は顔を(あか)めて、座にも()ふべからざるばかりの面皮(めんぴ)(かか)されたり。

 この一番にて紳士の姿は不知(いつか)見えずなりぬ。

 男たちは萬歳を唱へけれども、女の中には(たなぞこ)の玉を失へる心地(ここち)したるも多かりき。

 散々に破壊され、狼藉され、蹂躙されし富山は、余りにこの文明的ならざる遊戯に(おそれ)をなして、

(ひそか)(あるじ)の居間に逃歸(にげかへ)れるなりけり。


 【意訳】

  前編 第一章  (一)の二  〔その13〕    ―― ダイヤの指輪 ――


 ダイヤに心惹かれる女達ばかりだったが、ミヤだけは騒がず、奥床しく振舞っていた。

 男達は安堵して、今度はこのミヤと組んで、富山に恥をかかせてやりたいと、手薬煉(てぐすね)引いていた。

 しかし、クジの結果は驚くべきことに、富山とミヤが、同じ組になってしまった。

 おかげで、二手に分かれて輪が、一つの大きな輪になった。

 男達は富山を痛い目に遭わせてやろうと、女達はミヤを(ねた)ましいと、その二つの思いが合わさった。

 しかも富山とミヤは隣り合わせに座った。

 たちまちその隣に「社会党」と名乗るペアが現れた。

 「社会党」の主義主張は不平不満を言い募ることで、目的は破壊。

 さらに正面のグループも富山の鼻をへし折ろうと必死になっていた。

 予想通りと言うか、富山とミヤの組はボロ負けした。

 散々にいたぶられ、狼藉された富山は、面目を失って、這う這うの体で主人の居間に逃げて行った。


 【語彙解説】  註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。


〇洋行(ようこう) ・・・ 欧米へ旅行・留学すること。

〇妬(ねた)く ・・・ 妬ましく

〇孤忠(こちゅう) ・・・ 心を同じくする人もなく、たった一人で尽くす忠義。味方のないただ一人の忠義。

〇手藥煉(てぐすね)引いて ・・・ 十分に準備して待ち構えること。

〇鬮/籤(くじ) ・・・ 紙片や竹片などに文句や記号を記し、その一つを抜き取って、事の成否や吉凶を判断したり、当落・順番などを決めたりする方法。また、その紙片・竹片など。古くは神意をうかがうのに用いた。

〇鼻白(はなじろ)む ・・・ 1.気後れした顔つきをする。 2.興ざめがする。

〇面皮(めんぴ)を欠(か)く ・・・ 面目を失う。世間に人にあわせる顔をなくす。

〇掌(たなぞこ/たなごころ)の玉 ・・・ 手の内にある珠玉。転じて、大切なもの、大事なもの。また、最愛の子供や妻にたとえていう語。掌中の玉。


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