『金色夜叉』(こんじきやしゃ)  その12    ―― ダイヤの指輪 ――


 【還暦ジジイの解説】


 明治時代になって、西欧から新しい句読法(くとうほう)が導入されたが、尾崎紅葉はこれをフルに活用していたのが、今回の場面。

 原文では、人々の発言に「金剛石(ダイヤモンド)」という言葉が組み込まれ、それが皆、「。」「!」「??」「?」などの句読法で弁別され、

「うむ」「あら、まあ」といった感嘆詞(かんたんし)などが組み合わされて、人々の反応の違いがより際立っている。

 当時としては、非常に斬新な表現だったようだ。


 【現代口語訳】

  前編 第一章  (一)の二  〔その12〕


 こうしてあちらからこちらへ、甲から乙に伝わり、

 「ダイアモンド!」
 「うん、ダイアモンドだ」
 「ダイアモンド??」
 「なるほど、ダイアモンドか!」
 「まあ、ダイアモンドよ」
 「あれがダイアモンド?」
 「見ろよ、ダイアモンドだぜ」
 「あら、まあダイアモンド??」
 「素晴しいダイアモンドだ」
 「恐ろしく光るのね、ダイアモンドって」
 「三百円だって、あのダイアモンド」

 (またた)く間に三十数人は、それぞれ互いにこの紳士の金持ちさを言い立てた。

 彼は、人々が順々に自分の方を眺めるのを見て、その手に格好良く葉巻を持ち、右手を袖口に差し入れ、

少しだるそうに床柱にもたれて、眼鏡の下から下界を見渡すかのように目配りしていた。

 このような目印のある人の名は、誰も問わないでいるわけもなく、洩れたのは、お俊の口からだった。

 彼は富山唯継(とみやまただつぐ)と言い、一代で財を成した下谷区(現:台東区)で有名な資産家の跡取りだった。

 同じ区にある富山銀行は彼の父が創設したもので、市会議員の中にも富山重平の名を見出(みいだ)すことができた。

 ミヤの名が男たちに持て(はや)されるように、富山という彼の名もすぐさま女たちの口ぐちに(のぼ)った。

 ああ一度はこの男と組んで、世にも高価な宝石に近付く光栄を得たいものだと、彼女らの中で心に願わない者は希だった。

 誰かもし彼に近付く光栄を得れば、ただその目を類まれなく楽しまされるだけでなく、

その鼻までもヴァイオレットの滅多に嗅ぐことのできない香りを愉しむ幸運を受けるはずだった。



 【原文】  註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。

  前編 第一章  (一)の二  〔その12〕


 (かく)して彼より(これ)に伝へ、甲より乙に通じて、

金剛石(ダイアモンド)!」

「うむ、金剛石だ。」

「金剛石??」

「成程金剛石!」

「まあ、金剛石よ。」

(あれ)が金剛石?」

「見給へ、金剛石。」

「あら、まあ金剛石??」

可感(すばらし)い金剛石。」

可恐(おそろし)い光るのね、金剛石。」

「三百円の金剛石。」

 (またた)(ひま)に三十余人は相呼(あいよ)相応(あいおう)じて紳士の(とみ)(うた)へり。

 彼は人々の更互(かたみがわり)におのれの(かた)(なが)むるを見て、其手(そのて)形好(かたちよ)葉巻(シガア)を持たせて、

右手(めて)袖口(そでぐち)に差入れ、少し(たゆ)床柱(とこばしら)(もた)れて、目鏡(めがね)の下より下界を見遍(みわた)すらんやうに目配(めくば)りして()たり。

 かかる目印ある人の名は(たれ)しも問はであるべきにあらず、洩れしはお俊の口よりなるべし。

 彼は富山唯繼(とみやまただつぐ)とて、一代分限(ぶげん)ながら下谷區(したやく)に聞ゆる資産家の家督(かとく)なり。

 同じ區なる富山銀行はその父の私設する所にして、市会議員の中うちにも富山重平(じゆうへい)の名は見出(みいだ)さるべし。

 宮の名の男の方に持囃(もてはやさ)るる如く、富山と知れたる彼の名は(ただち)に女の口々に(しょう)ぜられぬ。

 あはれ一度はこの紳士と組みて、世に(めで)たき宝石に咫尺(しせき)する(えい)()ばや、と彼等の心々(こころごころ)(こいねが)はざるは(まれ)なりき。

()し彼に咫尺するの栄を得ば、(ただ)にその目の(たぐひ)無く(たのし)まさるるのみならで、

その鼻までも菫花(ヴァイオレット)の多く(かぐ)べからざる異香(いきょう)(くん)ぜらるるの(さいは)ひを受くべきなり。


 【意訳】

  前編 第一章  (一)の二  〔その12〕    ―― ダイヤの指輪 ――


 ダイヤモンドの噂は、あの人からこの人へと駆け抜けた。

 「なに、ダイヤモンド!」
 「なるほど、ダイヤか!」
 「わあ!ダイヤよ!」
 「あれがダイヤなのか?」
 「見ろよ、ダイヤだぜ」
 「素晴しいわ」
 「もの凄く光るのね、ダイヤって」
 「三百円だって」

 あっという間に三十数人は、口々に紳士の金持ちぶりを言い合うのだった。

 紳士は、気怠(けだる)い感じで床柱にもたれて座り、人々が自分の方を眺めるのを見て、左手に格好良く葉巻をはさみ、

ダイヤの指輪を一層見せつけていた。

 そうやって、眼鏡越しに下界を見渡すかのようであった。

 この紳士は富山唯継(とみやまただつぐ)と言って、一代で財を成した資産家の継嗣(あとつぎ)だった。

 彼の父・重平(じゅうへい)は富山銀行を創設し、市議会議員でもあった。

 富山の名は、たちまち女達の口々に上った。

 一度はこの男と組んで、ダイヤを近くで見たい、と、願う女ばかりだった。


 【語彙解説】  註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。


〇懈(たゆ)げ ・・・ だるそうなさま。

〇一代分限(いちだいぶんげん/いちだいぶげん) ・・・ 一代で財産をつくりあげた金持。財産家。

〇下谷區(したやく) ・・・ 明治時代の「東京府下谷区」で、現在「東京都台東区」。

〇咫尺(しせき)する ・・・ 貴人などに近寄ること。拝謁(はいえつ)すること。

〇異香(いきょう/いこう) ・・・ 普通と異なるよいかおり。すぐれたよいかおり。


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