『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その11 ―― ダイヤの指輪 ――
【現代口語訳】
前編 第一章 (一)の二 〔その11〕
お俊はカルタ取りの席に戻ると同時に、そっと隣の娘の膝をつついて早口に囁いた。
娘は急いで顔を上げて男性を見たが、その人よりはその指に輝く物の異常さに驚いた様子で、
「まあ、あの指輪は! ちょっと、ダイヤモンド?」
「そうよ」
「大きいのねー」
「三百円だって」
お俊の説明を聞いた娘は、身体の毛のよだつのを感じながら、
「まあ! 好いのねえ」
小魚の目ほどの真珠の指輪でさえ、この幾年か憧れながらも、いまだに容易に許せれない娘の胸は、
たちまちある事を思い浮かべて攻太皷のように轟いた。
彼女が、呆然として我を失っている間に、電光のように隣から伸びてきた長い肘は、鼻先の一枚のカルタを引きさらったので、
「あら、あなたどうしたのよ」
お俊は苛立って娘の横膝を続けざまに叩いた。
「よくってよ、よくってよ、これからはもうよくってよ」
娘はようやく空想の夢から覚めて、及ばない身の分を諦めたが、ダイヤモンドの強い光に焼かれた心は、
幾らか知覚を失ってしまったようで、それまでの目覚ましかった手並みの程も見る見る次第に乱れていき、
この時から娘は、お俊にとって、頼りがいのない味方になり下がってしまったのである。
【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第一章 (一)の二 〔その11〕
お俊は骨牌の席に復ると侔く、密に隣の娘の膝を衝きて口早に囁きぬ。
彼は忙々く顔を擡げて紳士の方を見たりしが、其人よりは其指に耀く物の異常なるに駭かされたる體にて、
「まあ、那の指環は! 一寸、金剛石?」
「然うよ。」
「大きいのねえ。」
「三百圓だつて。」
お俊の説明を聞きて彼は漫に身毛の彌立つを覺えつつ、
「まあ!好いのねえ。」
鱓の目ほどの眞珠を附けたる指環をだに、此幾歳か念懸くれども未だ容易に許されざる娘の胸は、
忽ち或事を思ひ浮べて攻皷の如く轟けり。
彼は惘然として殆ど我を失へる間に、電光の如く隣より伸來れる猿臂は鼻の前なる一枚の骨牌を引攫へば、
「あら、貴女如何したのよ」
お俊は苛立ちて彼の横膝を續けさまに拊きぬ。
「可くつてよ、可くつてよ、以來もう可くつてよ」
彼は始めて空想の夢を覺して、及ばざる身の分を諦めたりけれども、
一旦金剛石の強き光に燒かれたる心は幾分の知覺を失ひけんやうにて、
然しも目覺かりける手腕の程も見る見る漸く四途亂しどろになりて、
彼は敢無くも此時よりお俊の為に頼み難き味方となれり。
【意訳】
前編 第一章 (一)の二 〔その11〕 ―― ダイヤの指輪 ――
お俊はカルタ取りの席に戻ると同時に、そっと隣の娘の膝を突いて早口に囁いた。
娘は素早く顔を上げて男性を見たが、人となり以上にその指に輝く物の異常さに驚いた。
「まあ、あの指輪! ダイヤ?」
「そうよ」
「大きいのねえ」
「三百円だって」
お俊の説明を聞いた娘は、
「まあ! 凄いのねえ」
小粒の真珠の指輪でさえ、この何年も叶わない娘の胸に、たちまち妄想が押し寄せ、呆然と我を失ってしまった。
その間に、光の速さで隣から腕が伸び、娘の前にある一枚のカルタが引きさらわれた。
「あら、あなた。どうしたのよ」
お俊は苛立って娘の横膝を続けざまに叩いた。
「あっ、ゴメン!大丈夫!大丈夫!もう油断しないから」
と、娘は言ったものの、ダイヤの光に未練が残っていたようで、全く頼りにならなくなった。
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇骨牌/歌留多(かるた) ・・・ ポルトガル語の「CARTA」の当て字。作者は「歌留多」と「骨牌」の両方を用いている。
〇侔(ひとし)く ・・・ ひとしい。大きさがそろっている。今回の場合は「同時に」の意味。
〇三百圓(さんびやくゑん/さんびゃくえん) ・・・ 明治中期と後期では、貨幣価値が違うところだが、現在なら300万円~600万円ではないか、と、説明されている。但し、ダイヤモンドは当時珍しい宝石だったので、批評家の中には、「紅葉先生、もう少し高値にすべきじゃあなかったか」と苦言を呈している人も居る。(笑)
〇漫(そぞろ)に ・・・ 1.なんとなく。2.心が落ち着かないさま。そわそわするさま。3.わけもなく。なんとなく。
〇鱓(ごまめ) ・・・ カタクチイワシを干したもの。正月や祝儀の料理用。たづくり。
〇攻皷(せめつづみ) ・・・ 攻撃合図に打ち鳴らすつづみ。
〇惘然(ぼうぜん) ・・・ あっけにとられているさま。呆然と同じ。
〇猿臂(ゑんぴ/えんぴ) ・・・ 猿の長い手。転じて、そのように長い腕。
〇四途亂/四途乱(しどろ) ・・・ 秩序なく乱れているさま。