『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その10 ―― ダイヤの指輪 ――
【現代口語訳】
前編 第一章 (一)の二 〔その10〕
「何だ、あれは?」
例の二人の男のうちの一人は、憎さげに呟いた。
「いやな奴!」
唾を吐くように言って学生はわざと顔を背けた。
「お俊や、ちょいと」
と内儀は群集の中よりその娘を手招きした。
お俊は両親が紳士を伴っているのを見ると、慌しく立って来た。
その顔は美しくはなくとも愛嬌良く、すごく父に似ていた。
髪は高島田に結って、肉色縮緬の羽織はつまんだ程の肩揚していた。
顔を赤らめつつ紳士の前に跪いて、慇懃に頭を下げると、彼はわずかに小腰を屈めただけだった。
「どうぞこちらへ」
娘は案内しようと待構えたが、紳士はさほど嬉しくない様子で頷いた。
母は歪んだ口を怪しげに動かして、
「あの、お前、結構な御年玉をお頂戴したのよ」
お俊が再び頭を下げると、紳士は笑みを含んで目礼した。
「さあ、まあ、いらしって御覧なさい」
主の勤める傍から、妻はお俊を促して、お俊は紳士を案内して、客間の床柱の前の火鉢のある方に伴った。
妻はそこまで介添えに付いて来た。
例の二人の男は、家内の紳士を扱うことの鄭重なのを訝って、彼の行くところから坐るまで一挙一動も見逃さなかった。
その行く時、彼の姿はあたかも左の半面を見せて、広間を通り過ぎたのだが、薬指に輝く物のただならない強い光が燈火に照り添って、
ほとんど正しく見ることができないまでに眼を射られたのに呆れ、戸惑った。
天上の最も明るい星は我が手に在りとでも言いたそうに、
紳士は彼らが未だ嘗て見たこともない大きさのダイヤモンドを飾った黄金の指環を穿めていた。
前編 第一章 (一)の二 〔その10〕
【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
「何だ、彼は?」
例の二人の一個は然も憎さげに呟けり。
「可厭な奴!」
唾吐くやうに言ひて學生は故と面を背けつ。
「お俊や、一寸。」
と内儀は群集の中より其娘を手招きぬ。
お俊は兩親の紳士を伴へるを見るより、慌忙く起ちて來たれるが、
顔好くはあらねど愛嬌深く、いと善く父に肖たり。
高島田に結ひて、肉色縮緬の羽織に撮みたるほどの肩揚したり。
顔を赧めつつ紳士の前に跪きて、慇懃に頭を低れば、彼は纔に小腰を屈めしのみ。
「どうぞ此方へ」
娘は案内せんと待構へけれど、紳士は然して好ましからぬやうに頷けり。
母は歪める口を怪しげに動かして、
「あの、見事な、まあ、御年玉を御戴きだよ」
お俊は再び頭を低げぬ。
紳士は笑を含みて目禮せり。
「さあ、まあ、被入いまし。」
主の勸むる傍より、妻はお俊を促して、お俊は紳士を案内して、客間の床柱の前なる火鉢在る方に伴れぬ。
妻は其處まで介添に附きたり。
二人は家内の紳士を遇ふことの極めて鄭重なるを訝りて、彼の行くより坐るまで一擧一動も見脱さざりけり。
其の行く時彼の姿は恰も左の半面を見せて、團欒の間を過ぎたりしが、
無名指に輝ける物の凡ならず強き光は燈火に照添ひて、
殆ど正しく見る能はざるまでに眼を射られたるに呆れ惑へり。
天上の最も明なる星は我手に在りと言はまほしげに、
紳士は彼等の未だ曾て見ざりし大さの金剛石を飾れる黄金の指環を穿めたるなり。
【意訳】
前編 第一章 (一)の二 〔その10〕 ―― ダイヤの指輪 ――
「何だ、あれは?」
例の二人の男のうちの一人は、憎々しげに呟いた。
「いやな奴!」
唾を吐くように言って学生はわざと顔を背けた。
「お俊や、ちょいと」
と内儀は群集の中よりその娘を手招きした。
お俊は両親が紳士を伴っているのを見ると、慌しく立って来た。
顔はよくないが、愛嬌があって福相をしている。
髪を高島田に結って、肉色縮緬の羽織はつまんだ程の肩揚しているのも愛らしい。
娘は顔を赤くして紳士の前に跪いて頭を下げると、彼はわずかに小腰を屈めただけだった。
「どうぞ、こちらへ」
と、案内しようとした娘に、母は
「結構な御年玉をお頂戴したのよ」と言った。
娘が再び頭を下げると、紳士は微笑んで頷いた。
「さあ、まあ、いらしって下さい」と、主の亮輔が勧める。
お俊は紳士を客間の火鉢のある床柱に案内した。
例の二人の男は、紳士の一挙一動も見逃さなかった。
そして、紳士の薬指に見たこともない大きなダイヤの付いた黄金の指環に気付いた。
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇肩揚(かたあ)げ ・・・ 子供の着物で裄(ゆき)を肩のところで縫いあげておくのを云う。〔よって、お俊が年頃になりかけているのが解る。〕
〇團欒/団楽(まどゐ/まどい/だんらん) ・・・ 1.集まって車座に座ること。まどい。 2.親しい者たちが集まって楽しく時を過ごすこと。