『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その9 ―― ダイヤの指輪 ――
【現代口語訳】
前編 第一章 (一)の二 〔その9〕
紳士は年齢二十六か七らしく、背は高く、程よく肥えて、肌は玉のように白く、頰の辺りは薄紅を帯びている。
額は厚く、口は大きく、顎は左右に広がり、面積の広い顔は正方形を成していた。
ウェーブのかかった髪を左よりなで付けて、油で固めていた。
薄い口髭を生して、金縁の目鏡を掛け、五紋の黒塩瀬の羽織に華紋織の小袖を裾長に着ている。
六寸の七糸帯に金鎖を垂らして、鷹揚に、座中を見回す姿は、辺りを払うようであった。
この広間の中に彼のように色白く、身奇麗で、しかも美々しく装う者は、他に居なかった。
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【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第一章 (一)の二 〔その9〕
紳士は年齒二十六七なるべく、長高く、好き程に肥えて、色は玉のやうなるに頰の邊には薄紅を帶びて、
額厚く、口大きく、腮は左右に蔓りて、面積の廣き顔は稍正方形を成せり。
緩く波打てる髪を左の小鬢より一文字に撫付けて、少しは油を塗りたり。
濃からぬ口髭を生して、小からぬ鼻に金縁の目鏡を挾み、
五紋の黒鹽瀬の羽織に華紋織の小袖を裾長に着做したるが、
六寸の七絲帶に金鏈子を垂れつつ、大樣に面てを擧げて座中を眴たる容は、
實に光を發つらんやうに四邊を拂ひて見えぬ。
この團欒の中に彼の如く色白く、身奇麗に、而も美々しく装ひたるはあらざるなり。
【意訳】
前編 第一章 (一)の二 〔その9〕 ―― ダイヤの指輪 ――
内儀に導かれ、主の亮輔を従え、仰々しく入って来た二十六七歳の紳士は、背は高く、少し肥えて、肌は白い。
額は広く、口も大きく、顎が左右に出っ張り、顔はほぼ正方形である。
ウェーブのかかった髪を左よりなで付け、リキッドで固めていた。
薄い口髭を生して、金縁の目鏡、五紋の黒塩瀬の羽織に華紋織の小袖を裾長に着ていた。
七糸帯に金クサリを垂らして、落ち着いた様子で、広間を見回す姿は、他の者を寄せつけぬ空気があった。
この広間の中で、彼が一番オシャレであった。
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇腮/顎門/顎/鰓(あぎと) ・・・ 1.あご。おとがい。 2.鰓。魚のえら。
〇五つ紋(もん) ・・・ 背の中央の襟の下、左右の外袖、前の肩下の左右、計五箇所に紋を染めだしたもの。
〇黒鹽瀬/黒塩瀬(くろしほせ/くろしおせ) ・・・ 当時の男性の正装した紋付羽織。「塩瀬」は厚地のよこうねのある羽二重。
〇華紋織(くわもんおり/かもんおり) ・・・ 花模様のある織物。
〇七絲帶/七糸帯(しちんおび/しっちんおび) ・・・ 正しくは繻珍帯。もと七色以上の色糸を用いたので「七糸」と書く。絹紋織物の帯。
〇團欒/団欒(まどゐ/まどい/だんらん) ・・・ 1.集まって車座に座ること。まどい。 2.親しい者たちが集まって楽しく時を過ごすこと。