『金色夜叉』(こんじきやしゃ)  その8    ―― カルタ会 ――


 【現代口語訳】

  前編 第一章  (一)の二  〔その8〕


 綱曳(つなひ)きの車で駆けつけた紳士は、しばらく休息の後、内儀(ないぎ)に導かれて広間に入って来た。

 その後ろには、今まで居間に(ひそ)んでいた主の箕輪亮輔(みのわりょうすけ)も付き添っていた。

 広間は、戦場の最前線とばかりに入り乱れている状態だったため、彼らの入場に気付いた者はほとんどいなかった。

 それでも片隅で語り合っていた二人の男は、いち早く目をそばめて紳士の風采を視ていた。


 広間の灯りは部屋の入口に立つ三人の姿を鮮やかに照した。

 色白の小さい内儀の口は神経質そうに(ゆが)み、その夫の額際より赤禿()げあがった頭は(なめ)らかに光っていた。

 人並みより小さい妻とは対照的に、夫は大男で太っていた。

 彼女の用心深い表情に比べて、夫は生身の人間でありながら布袋(ほてい)様のような福相(ふくそう)だった。


 



 【原文】  註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。

  前編 第一章  (一)の二  〔その8〕


 綱曳(つなひき)にて駈着(かけつ)けし紳士は(しばら)く休息の(のち)内儀(ないぎ)に導かれて入來(いりきた)りつ。

 其後(そのうしろ)には、今まで居間に(ひそ)みたりし(あるじ)箕輪亮輔(みのわりやうすけ)附添(つきそ)ひたり。

 席上は入亂(いりみだ)れて、(ここ)先途(せんど)(はげし)き勝負の最中なれば、彼等の來(きた)れるに心着(こころづ)きしは(まれ)なりけれど、

片隅に物語れる二人は逸早(いちはや)く目を(そば)めて紳士の風采(ふうさい)()たり。


 廣間(ひろま)燈影(ひかげ)は入口に立てる三人(みたり)の姿を(あざや)かに(てら)せり。

 色白の(ちひさ)内儀(ないぎ)の口は(かん)の爲に引歪(ひきゆが)みて、其夫(そのをッと)額際(ひたいぎは)より赭禿(あかは)たる頭顱(つむり)(なめら)かに光れり。

 妻は尋常(ひとなみ)より(ちひさ)きに、(をッと)(すぐ)れたる大兵(だいひよう)肥満にて、

彼の常に心遣(こころづかひ)ありげの面色(おももち)なるに引替(ひきかえ)へて、生きながら布袋(ほてい)を見る(ごと)福相(ふくさう)したり。


 【意訳】

  前編 第一章  (一)の二  〔その8〕    ―― カルタ会 ――


 人力車で駆けつけた紳士は、奥さんに導かれて広間に入って来た。

 その後ろには、今まで居間にいた家主の箕輪亮輔(みのわりょうすけ)も付き添っていた。

 広間は、戦場のごとく入り乱れている状態だったので、彼らの入室に気付いた者は(ほとん)ど居なかった。

 しかし、手炉(てあぶり)を囲んでいた例の二人の男は、いち早く気付き、紳士の身なりに目をやった。


 広間の灯りは三人の姿をはっきりと照らした。

 背の低い奥さんの口は神経症で歪み、その夫のハゲ頭は光っていた。

 奥さんが人並み小さいのとは対照的に、夫は大男で肥えていた。

 彼女の用心深い表情に比べて、夫は、あたかも布袋様のようだ。


 【語彙解説】  註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。


〇綱曳(つなひき) ・・・ 人力車の車夫。

〇疳/癇(かん) ・・・ 1.ひきつけなどを起こす病気。 2.神経質で怒りやすい気質。ちょっとしたことにも興奮し、いらいらする性質・気持ち。 3.皮膚や粘膜にできる小さな腫物(はれもの)。軟性下疳(げかん)など。
 
〇赭禿(あかは)げ ・・・ 頭髪がすっかり抜け落ちていること。「赭」は、はげやまのこと。

〇尋常(ひとなみ/じんじょう) ・・・ 1.特別でなく、普通であること。 2.見苦しくないこと。目立たず上品なこと。

〇布袋(ほてい) ・・・ 七福神の一神。大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。


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