『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その7 ―― カルタ会 ――
【現代口語訳】
前編 第一章 (一)の二 〔その7〕
袋棚と障子との片隅に手炉を囲んで、蜜柑を剥きながら語りあう男たちがいた。
そのうちの一人が、彼女(ミヤ)の横顔に惚れ惚れと遠くから見入っていたと思うと、遂に感に堪えないように呻いた。
「いい!いい!全くいい!馬子にも衣裳と言うけれど、美しいのは衣裳には及ばんね。物それ自らが美しいのだもの、着物などはどうでもよい、実は何も着てなくてもよい」
「裸体なら、なおいいさ!」
おそらく美術学校の学生であろう、もう一人が強く合槌をうった。
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【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第一章 (一)の二 〔その7〕
袋棚と障子との片隅に手爐を圍みて、蜜柑を剝きつつ語ふ男の一個は、
彼の横顔を恍惚と遙に見入りたりしが、遂に思堪へざらんやうに呻き出せり。
「好い、好い、全く好い!馬士にも衣裳と謂ふけれど、美いのは衣裳には及ばんね。
物其自らが美いのだもの、着物などは如何でも可い、實は何も着て居らんでも可い。」
「裸體なら猶結構だ!」
此の強き合槌撃つは、美術學校の學生なり。
【意訳】
前編 第一章 (一)の二 〔その7〕 ―― カルタ会 ――
手炉を囲んで、蜜柑を食べながら語る二人の男。
一人の男が、ミヤの横顔に見入っていたが、遂に呻いた。
「いい!いい!馬子にも衣裳と言うけれど、彼女には衣裳なんか必要ないね。
彼女自身が美しいんだから。何も着ていなくてもいい」」
と言うと、もう一人の男が、
「裸なら、なお結構だ!」
と、合槌をうった。彼は、美術学校の学生だった。
【語彙解説】 註:緑色文字は新かな遣い、新漢字。
〇手爐/手炉(てあぶり/しゅろ) ・・・ 手をあぶるための小火鉢。手あぶり。
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〇馬士にも衣裳/馬子にも衣裳(まごにもいしょう) ・・・ つまらない者でも、立派な衣裳を着せれば立派に見える意味の諺。
「馬子」とは馬方とも言い、人や荷物をのせた馬を引いていた者のことで、粗末な身なりの身分の低い者のたとえ。
「馬子」を「孫」と勘違いするのはよくある話。