『金色夜叉』(こんじきやしゃ) その5 ―― カルタ会 ――
【還暦ジジイの解説】
明治時代は「男女七歳にして席を同じうせず」と言われ、学校は男子校と女子校に別れ男女共学ではなかった。
そんな中で、正月の百人一首のカルタ会は、数少ない男女の社交場であった。
謂わば夏の盆踊りと同じ様なものだ。
若い息子や娘が居る大きな屋敷が、正月三ケ日、カルタ会を催すのだが、近隣の男女は三日間で全ての会に出席できない。
当然、男どもは、事前リサーチして、若くて綺麗な女性が出席する屋敷に目星をつけて仲間を誘う。
必然的に、人が人を呼んで、満員盛況のカルタ会となった。
従って、この小説のカルタ会の場所は、料亭とかではなく、一個人の屋敷で、男と女の出会いの場である。
なんだか、ドキドキしますねえ。
クリックすると拡大します
【現代口語訳】
前編 第一章 (一)の二 〔その5〕
(一)の二
箕輪家は奥の十畳の客間と八畳の中の間とを打抜いて、広間の十個所に真鍮の燭台を据え、五十目掛の大ローソクは沖の漁火のように燃えているところに、
間毎の天井にニッケルメッキのランプを点しているので、四辺は真昼間より明るく、人の顔が眩しいまでに輝きわたっていた。
三十人余りの若い男女は二つの輪を作り、今を盛りとカルタ遊びに夢中になっていた。
大ローソクの炎と炭火の熱と多人数の熱気が混じった一種の温気の殆ど凝り固まって動かない一間の内を、タバコの煙と燈火の油煙とが互いに縺れて渦巻きつつ立迷っていた。
込み合う人々の顔は皆赤くなり、白粉の薄く剥げた者あり、髪の解れた者あり、着物のしどけなく着崩れた者もあった。
女は装い飾っているので、取乱しているのが殊更に著しく見えた。
男たちもシャツの腋が裂けて、ヴェストばかりになる者もいた。
羽織を脱いで、帯が解けたのも気付かず、尻を突き出している者までいた。
十本の指を四本まで紙で結った者もあった。
あれほどまで息苦しい熱気も、むせぶ煙の渦も、皆、狂して知らないかのように、むしろ喜んで罵り喚く声、笑い崩れる声、
格闘し、踏みにじるひしめき、一斉に揚がる騒ぎ声など、絶え間ない騒動の中に狼藉として戯れ遊ぶていたらくは、
人の守るべき道もヘチマの皮よとばかりに地に塗れ、ただ修羅道を繰り返すばかりだった。
【原文】 註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。
前編 第一章 (一)の二 〔その5〕
(一)の二
箕輪の奥は十疊の客間と八疊の中の間とを打抜きて、広間の十個處に眞鍮の燭臺を据ゑ、
五十目掛の蠟燭は沖の漁火の如く燃えたるに、間毎の天井に白銅鍍の空氣ラムプを点したれば、
四邊は眞昼より明に、人顔も眩きまでに耀き遍れり。
三十人に餘んぬる若き男女は二分に輪作りて、今を盛と歌留多遊を爲るなりけり。
蠟燭の焔と炭火の熱と多人數の熱蒸と混じたる一種の溫氣は殆ど凝りて動かざる一間の内を、
莨の煙と燈火の油煙とは更に縺れて渦巻きつつ立迷へり。
込合へる人々の面は皆赤うなりて、白粉の薄剝げたるあり、髪の解れたるあり、衣の亂次く着頽れたるあり。
女は粧ひ飾りたれば、取亂したるが特に著るく見ゆるなり。
男はシャツの腋の裂けたるも知らで胴衣ばかりになれるあり、羽織を脱ぎて帶の解けたる尻を突出すもあり、十の指をば四まで紙にて結ひたるもあり。
さしも息苦き溫氣も、咽ばさるる煙の渦も、皆狂して知らざる如く、寧ろ喜びて罵り喚く聲、笑頽るる聲、
捩合ひ、踏破く犇き、一齊に揚ぐる響動など、絶間無き騒動の中に狼藉として戯れ遊ぶ爲體は
三綱五常も糸瓜の皮と地に塗れて、唯是修羅道を打覆したるばかりなり。
【意訳】
前編 第一章 (一)の二 〔その5〕 ―― カルタ会 ――
(一)の二
箕輪家の奥は十畳と八畳の間を打ち抜いて、燭台のローソクと天井のランプに照らされ、部屋は真昼のように明るい。
三十数人の若き男女は、二つの輪を作り、カルタ遊びに熱中していた。
込み合う人々の顔は皆赤くなり、白粉の剥げた者、髪の解れた者、着物が着崩れた者もあった。
息苦しい温気も、タバコの煙の渦も、皆狂喜して知らないかのように。
罵り喚く声、笑う声、格闘し踏み躙る音、一斉に揚がる騒ぎ声、などなど、修羅場と化していた。
【語彙解説】 註:緑色文字は現代かな遣い、新字体。
〇五十目掛(ごじゅうめかけ)の蝋燭 ・・・ 「見た目約五十匁のローソク」のことであろう。直径4cm×高さ24cm程、重さ約190g。非常に明るく、約7時間燃焼するという大きなローソク。
クリックすると拡大します
〇空氣(くうき)ランプ ・・・ 石油ランプの一つ。光を強くするため、芯を円筒形にし、口金の下部に多くの穴をあけて空気の通りをよくし、燃焼が盛んになるようにしたもの。
クリックすると拡大します
〇歌留多/骨牌(かるた) ・・・ ポルトガル語の「CARTA」の当て字。作者は「歌留多」と「骨牌」の両方を用いている。
〇溫氣/温気(うんき) ・・・ 暑さ。熱気。蒸し暑さ。
〇亂次/乱次(しどな)い ・・・ 服装や髪が乱れていて、だらしない。むぞうさで、しまりがない。「乱次ない」と書いて「しどけない」と読む場合あり。
〇着頽(きくづ)れ ・・・ 「着崩れ」と同じ意。「頽れる」と書いて「くず・おれる」と読む。
〇笑頽(わらひくづ)る ・・・ 「笑い崩れる」と同じ意。「頽れる」と書いて「くず・おれる」と読む。
〇捩合(ねぢあ)ひ ・・・ 互いにねじる。また、もみあう。組み打ちをする。
〇踏破(ふみしだ)く ・・・ 強く踏む。踏みにじる。踏み散らす。動作の対象となるものは、小さくか弱そうな植物が主である。
〇響動(どよみ) ・・・ 1.音がひびきわたる。2.大きな声で騒ぐ。
〇三綱五常(さんかうごじやう/さんこうごじょう) ・・・ 儒教で、人として常に踏み行い、重んずべき道のこと。「三綱」は君臣・親子・夫婦の間の道徳。「五常」は仁・義・礼・智・信の五つの道義。
〇修羅道(しゆらだう/しゅらどう) ・・・ 仏教語。六道の一つ。阿修羅の住む世界。修羅地獄。
〇打覆(ぶツくりかへ/ぶちかえ)し ・・・ 繰り返し。<詳細>