『金色夜叉』(こんじきやしゃ)  その4  ―― 人力車の乗客 ――


 【還暦ジジイの説明】


 明治時代、新聞に掲載された紙面は、実際、どんなだったのだろうか?

 ご興味ある方は、こちら「『金色夜叉』の素人研究。その1」を御覧下さい。

 明治30年元旦から連載開始されたのだが、当サイトの「その4」までが元日(第一話)の内容だった。



 【現代口語訳】

  前編 第一章  〔その4〕


 「うむ、臭い」

 人力車の上で声がして行過ぎた跡には、捨てた葉巻の吸殻の捨てたのが赤く見えて煙っていた。

 「もう湯は抜けるのかな」

 「へい、松の内は早じまいでございます」

 車夫がこう答へた後は言葉が絶えて、車はまっしぐらに走り、紳士は二重外套(がいとう)の袖をひしと掻き合わせて、

カワウソの衿皮(えりがわ)の内に耳から深く顔を埋めていた。

 灰色の毛皮の敷物の端を車の後に垂れて、横縞の華やかな浮波織の膝掛けをし、提灯の徽章(きしょう)はTの花文字を二つ組合せたものだった。

 行き行きて車はこの小路のはずれを北に折れ、やや広い街路に出、僅かに走ってまた西に入り、

その南側の半程に『箕輪』と記した軒燈(けんとう)を掲げて、削ぎ竹を飾る門構えの内に()き入れた。

 玄関の障子に燈影は映しているのに格子は鎖し固めているところを、車夫は打ち叩いて、

 「頼む、頼む」

 奥の方からの騒ぎの激しさに紛れて、取合おうともしないので、二人の車夫は声を合せて訪問を告げつつ、

格子戸を続け打ちにすると、やがて急ぎ足の音を立てて人が出てきた。

 円髷(まげ)に結った四十ばかりの小さく痩せて色白な女が、茶微塵(ちゃみじん)の糸織の小袖に黒の奉書紬(ほうしょつむぎ)の紋付の羽織を着ているのが、この家の内儀(ないぎ)であった。

 彼女の忙しげに格子を開けるのを待って、紳士は優然と内に入ろうとしたが、土間の一面に充ち満ちた履物が杖を立てるべき余地さえないのにためらうと、

彼女はすかさずまめやかに下り立って、この敬うべき賓客(ひんきゃく)の為に辛くも一条(いちじょう)の道を開いた。

 紳士の脱捨てた駒下駄(こまげた)だけはひとり障子の内に取入れられた。



 【原文】  註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。

  前編 第一章  〔その4〕


 「うむ、(くさ)い」

 車の上に(こえ)して行過(ゆきす)ぎし(あと)には、葉巻の吸殻(すひがら)の捨てたるが赤く見えて(けぶ)れり。

「もう湯は抜けるのかな」

「へい、松の内は早仕舞(はやじまひ)でございます」

 車夫(しやふ)()く答へし後は(ことば)()えて、車は驀直(ましぐら)に走れり、紳士は二重外套(にぢゆうがいたう)(そで)(ひし)掻合(かきあは)せて、(かはうそ)衿皮(えりかは)の内に耳より深く(おもて)(うづ)めたり。

 灰色の毛皮の敷物の(はし)を車の後に垂れて、横縞(よこじま)華麗(はなやか)なる浮波織(ふはおり)蔽膝(ひざかけ)して、提灯(ちやうちん)徽章(しるし)はTの花文字を二個(ふたつ)組合せたるなり。

 行き行きて車は(この)小路の盡頭(はづれ)を北に折れ、(やや)(ひろ)(とほり)()でしを、(わづか)に走りて(また)西に()り、

その南側の半程(なかほど)箕輪(みのわ)(しるし)たる軒燈(のきランプ)(かか)げて、剡竹(そぎだけ)を飾れる門構(もんがまえ)の内に挽入(ひきい)れたり。

 玄関の障子に燈影(ひかげ)()しながら、格子(こうし)鎖固(さしかた)めたるを、車夫は打叩(うちたた)きて、

「頼む、頼む」

 奥の(かた)なる響動(どよみ)(はげし)きに(まぎ)れて、取合はんともせざりければ、二人の車夫は声を合せて(おとな)ひつつ、格子戸を連打(つづけうち)にすれば、やがて急足(いそぎあし)の音立てて人は()()ぬ。

 円髷(まるわげ)に結ひたる四十ばかりの(ちひさ)()せて色白き女の、茶微塵(ちやみぢん)糸織(いとおり)小袖(こそで)に黒の奉書紬(ほうしよつむぎ)紋付(もんつき)羽織(はおり)着たるは、この家の内儀(ないぎ)なるべし。

 彼の(せは)しげに格子を(あく)るを待ちて、紳士は優然と内に()らんとせしが、

土間の一面に充満(みちみち)たる履物(はきもの)(つゑ)を立つべき地さへあらざるに(ためら)へるを、

彼は(すか)さず勤篤(まめやか)下立(おりた)ちて、此()(うやま)ふべき(まらうど)(ため)(から)くも一條(いちでう)の道を開けり。

 (かく)て紳士の脱捨てし駒下駄(こまげた)のみは(ひと)障子(しょうじ)(うち)取入(とりい)れられたり。


 【意訳】

  前編 第一章  〔その4〕    ―― 人力車の乗客 ――


 「うむ…臭いな」

 人力車の客は「こんな早い時間から銭湯は湯を捨てるのか?」

 「はい。正月は早く閉めるんでございます」

 車夫がそう答えて、車はまっしぐらに走った。

 乗客の男性は灰色の毛皮の敷物に、膝かけを(まと)い、ファーのマフラーに顔をうずめ、コートの袖をしっかり掴んでいた。

 車はどんどん進み、「箕輪(みのわ)」と書かれた門灯の家に入った。

 玄関の中から灯りが漏れているものの、戸は固く施錠されていたので、車夫は戸をドンドンと叩いた。

 「ごめんください。ごめんください」

 奥のほうから、急ぎ足で人が応対に出てきた。

 髪を結っていて四十歳くらい、背の低くい色白の女性 ―― この家の内儀だろう。

 乗客の男性は悠然と中に入ろうとした。

 内儀はすかさず屈んで、玄関中に広がった靴を並べ、彼のために通路を開けた。


 【語彙解説】  註:緑色文字は新かな遣い、新字体。


〇浮波織(ふはおり) ・・・ 波文様(はもんよう)にした浮織(うきおり)と思われる。

 浮織(うきおり)とは、(あや)などの地紋(じもん)または表紋(うわもん)(たていと)を浮かして織ること。紋様(もんよう)刺繍(ししゅう)のように見える。

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〇盡頭/頭(はづれ/はずれ/じんとう) ・・・ はて。

〇軒灯(けんとう) ・・・ 「のきランプ」は当て字読み。軒先にかかげる灯火(とうか)。

〇剡竹(そぎたけ) ・・・ 削ぎ竹。先を削いでとがらせた竹。

〇響動(どよみ) ・・・ 〔「響動く」と書いて「どよめく」と動詞でも使う。〕音・声が鳴り響くこと。大声で叫ぶこと。また、その声。あるいは、大騒ぎ。どよめき。

〇円髷/丸髷(まるわげ/まるまげ) ・・・ 江戸時代から明治時代を通じて最も代表的な既婚女性の髪形。

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〇茶微塵(ちやみぢん/ちゃみじん) ・・・ 着物の縞柄(しまがら)の一つ。茶色の微塵縞(みじんじま)
  経(たていと)・緯(よこいと)ともに、二色の糸を交互に織った細かいしま。また、その織物。茶みじん・藍みじんなどの種類がある。みじんざめ。みじん。

〇奉書紬(ほうしよつむぎ/ほうしょつむぎ) ・・・ 絹織物の一種。(つむぎ)の精製品で、ほとんど羽二重(はぶたえ)に近いもの。奉書紙(ほうしょし)のように純白なところからいう。

〇内儀(ないぎ) ・・・ 他人の妻を敬っていう語。多く、町家の妻をいう。

〇恁(か)くて ・・・ このような。かかる。このように。あおのような。


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