『金色夜叉』(こんじきやしゃ)  その3    ―― 正月、凍てつく街 ――


 【現代口語訳】

  前編 第一章  〔その3〕


 人はこの内に立って、暗く、もの寂しい四方(しほう)(なが)め、どうやって人の世間があり、社会があり、都市があり、町があることを思えるだろうか。

 九重(きゅうちょう)の天と八際(はっさい)の地が、初めて混沌の境を出たとしても、万物はまだ誕生せず、風はただ吹き、星は新たに輝く一大荒原が、

何らの意志も、秩序も、趣きも無くて、ただ広く横たわっているに過ぎない。

 日中はさながら沸くかのように楽しみ、歌い、酔い、戯れ、歓び、笑い、語り、興ずる人々よ、

彼らははかなく夏に命を終えるボウフラの様相を落ち着け、今はどこでどうしているのだろう。

 しばらく静かになった後、遥かに拍子木の音が聞こえた。

 その響きの消える頃、にわかに一点の燈火が見え初め、ゆらゆらと町はずれを横切って去ってしまう。

 再び寒風は寂しい星月夜をほしいままに吹くのみであった。

 とある小路の銭湯が仕事じまいを急ぎ、建物の間の下水口から噴き出る湯気が一団の白い雲を舞い立てて、

心地の悪い微温を四方に溢れさせるとともに、垢臭い空気を盛んにほとばしるところに遭遇した、綱曳きの人力車があった。

 勢いで角から曲がって来たので、避ける間もなくその中を駆け抜けた。



 【原文】   註:旧かな遣い、正漢字。ルビは参照文献のまま。

  前編 第一章  〔その3〕


 人(この)(うち)に立ちて寥々冥々(れうれうめいめい)たる四望(しぼう)(あひだ)に、(いかで)()の世間あり、社會(しやくわい)あり、都あり、町あることを想得(おもひう)べき、

九重(きうちよう)の天、八際(はツさい)の地、始めて混沌(こんとん)(さかひ)()でたりと(いへど)も、

萬物(ばんぶつ)(いま)(ことごと)化生(くわせい)せず、風は(こころみ)に吹き、星は(あらた)(かがや)ける一大荒原(いちだいくわうげん)の、何等(なにら)旨意(しい)も、

秩序も、趣味も無くて、唯濫(ただみだり)(ひろ)(よこた)はれるに過ぎざる(かな)

 ()(うち)宛然(さながら)()くが(ごと)(たのし)み、(うた)ひ、()(たはむ)れ、(よろこ)び、笑ひ、語り、(きやう)ぜし人々よ、

彼等は(はかな)くも夏()てし孑孑(ぼうふり)の形を(をさ)て、今将(いまはた)何處(いづく)如何(いか)にして在るかを疑はざらんとするも(かた)からずや。

 多時(しばらく)静なりし(のち)(はるか)拍子木(ひやうしぎ)の音は聞えぬ。

 (その)(ひびき)の消ゆる頃(たちま)ち一点の燈火(ともしび)は見え()めしが、揺々(ゆらゆら)と町の盡頭(はづれ)横截(よこぎ)りて()せぬ。

 再び寒き風は(さびし)星月夜(ほしづきよ)(ほしいまま)に吹くのみなりけり。

 唯有(とあ)小路(こうぢ)湯屋(ゆや)仕舞(しまい)を急ぎて、廂間(ひあはひ)の下水口より噴出(ふきい)づる湯氣(ゆげ)一團(いちだん)の白き雲を舞立てて、

心地(ここち)(わる)微温(ぬくもり)四方(しほう)(あふ)るる(とも)に、垢臭(あかくさ)惡気(あくき)(さかん)(ほとばし)るに()へる綱引(つなひき)の車あり。

 勢ひで(かど)より(まが)()にければ、()くべき遑無(いとまな)くてその中を駈抜(かけぬ)けたり。


 【意訳】

  前編 第一章  〔その3〕    ―― 正月、凍てつく街 ――


 人っ子一人いない、この暗く寂しい(なが)めから、多くの人々が暮らしているとは想像できない。

 地球が誕生した頃、万物はまだ誕生せず、風だけが吹く一大荒原に過ぎなかったろう。

 目の前の眺めは、それに似ているに違いない。

 日中は、歌い、酔い、戯れ、笑いに興じた人々は、一体、どこでどうしているのだろう。


 しばらく静かな時間が流れ、拍子木の音が遠くから聞こえたが、直ぐに、聞こえなくなった。

 とある路地の銭湯は、下水口から落ちる湯気がもくもくとした白い雲を作っている。

 辺りにぬるさと垢臭さが溢れ漂うところに、ちょうど人力車がやって来て、その中を駆け抜けた。


 【語彙解説】  註:緑色文字は新かな遣い、新字体。


○寥々冥々(れうれうめいめい/りょうりょうめいめい) ・・・ 真っ暗で人気が無く寂しい様子。

○争か那(いかでかな) ・・・ 「如何(いか)でか」と同じ、「どうして」の意味で、後に否定形が続く。

○九重の天(きうちょうのてん/きゅうちょうのてん) ・・・ 天のもっとも高い所。九天(きゅうてん)=チャイナで、天を九つの方位に分けた称。

○八際の地(はっさいのち) ・・・ 「八際」は「八極」と同じ。四方(しほう)四隅(しぐう)。八方の遠い土地。全土。全世界。天下。八荒。八紘。

○化生(くわせい/かせい) ・・・ 新しいものが生れ出ること。

○旨意(しい) ・・・ 主旨。意図。考え。また、趣。わけ。指意。

○醉ひ(ゑひ) ・・・ 歴史的かな遣いで、現代口語なら「よう」(酔う)と書き、読む。

○孑孑(ぼうふり/ぼうふら) ・・・ 蚊の幼虫。〔詳細

○歛める(をさめる/おさめる) ・・・ 「歛」は「斂」の誤植ではないか、と確認したが、原文は「歛」であった。(『精選 名著復刻全集 近代文学館 「金色夜叉」(前編)』春陽堂版 発行:昭和59年12月20日)。「歛」は「あたえる、のぞむ、ねがう」の意味。「斂」は「おさめる。あつめる。まとめる。また、ひきしめる。」の意味。恐らく著者の筆の誤りであろう。

○盡頭/尽頭(はづれ/はずれ) ・・・ はて。

○廂間(ひあはひ/ひあわい) ・・・ 建てこんだ家の廂(ひさし)と廂とが突き出ている狹い所。日のあたらない所。


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