『金色夜叉』 第三章 「子爵邸」 (ししゃくてい) 著:尾崎紅葉 より一部抜粋
【還暦ジジイの解説】
『金色夜叉』と云えば、熱海の海岸で学生服姿の貫一が、和服姿のお宮を蹴り飛ばす場面が有名です。
この場面、若い頃、「酷い」なんて感じなかった。
でも、令和の今なら、蹴り飛ばされるのは、男の方でしょうねえ。
あははは
この場面には、アコーディオンを伴奏に歌う曲がある。
「熱海の海岸~♪ 散歩する~♪ 貫一お宮の二人連れ~♪」
どう云う訳か、私の幼い記憶に残っているのだ。
相当人気を博した劇だったのだろう、と、思う。
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今回抜粋した箇所は、この場面と関係ありませんが、「杳として」の語彙の文例として取り上げました。
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【本文】
第三章 子爵邸
あな、可疎しの吾子が心やと、涙と共に掻口説きて、
悲び歎きの余は病にさへ伏したまへりしかば、殿も所為無くて、心苦う思ひつつも、
猶行末をこそ頼めと文の便を度々に慰めて、彼方も在るにあられぬ三年の月日を、
憂きは死ななんと味気なく過せしに、一昨年の秋物思ふ積りやありけん、
心自から弱りて、存へかねし身の苦悩を、御神の恵に助けられて、
導かれし天国の杳として原ぬべからざるを、いとど可懐しの殿の胸は破れぬべく、
ほとほと知覚の半をも失ひて、世と絶つの念益す深く、
今は無尽の富も世襲の貴きも何にかはせんと、唯懐を亡き人に寄せて、
形見こそ仇ならず書斎の壁に掛けたる半身像は、彼女が十九の春の色を苦に手写して、嘗て貽りしものなりけり。
【現代語訳】
我が子ながらなんて疎ましいことを言い出すものか、
涙ながらに大反対されて、挙句には病に伏せってしまったので、ダンナも仕方あるまいと心苦しく思いながらも、
それでもいずれは結ばれたいと音信だけのやり取りを続けた。
相手の女性も三年もの月日を、憂鬱に沈んで死んでしまいそうになるほど味気なく過ごしていた。
しかし一昨年の秋、物思いが積もった結果、心が弱り、生きてはおれぬと、彼女はその苦しみを神の手に委ねてしまう。
天国に導かれた彼女の姿など探すこともできず、最愛の人の死にダンナの胸は張り裂けそうになった。
五感の大半を失ったような気になり、世間とはますます溝を深くしてしまい、
今更この膨大な財産が何になるのか、家を継ぐ意味なんて何があるのかと、ただ亡き人を想うだけの日々を過ごすようになる。
形見になるとは思いもしなかったが、書斎の壁に懸けた半身の像は彼女が十九の春のありさまを丹念に写生して、彼に送ったものだ。
【語彙説明】
〇 杳として原ぬべからざる ・・・
現代語訳 「天国に導かれ、(遥か遠く様子も知りようもない彼女を)原ねることは出来なかった」
意訳 「天国に導かれた彼女の姿など、探すことが出来ようか」
「杳(よう)として」の意味は、暗くてよくわからないさま。また、事情などがはっきりしないさま。 例文「杳として消息が知れない」。
「原(たず)ぬべからざる」の意味は、
「原ねる」が、物事の根本を探求すること。根本にさかのぼって考えること。
「べからざる」が、動詞の語尾につき、名詞を修飾し、「不可能」の意味を加える表現。
推量の助動詞「べし」と打ち消しの助動詞「ず」(の連体形)からなる連語表現。
「あり得べからざる事態」とかいう。