『運命』 著:幸田露伴 より一部抜粋 赤字が出題された箇所
世おのずから数というもの有りや。有りといえば有るが如く、無しと為せば無きにも似たり。
洪水天に滔るも、禹の功これを治め、大旱地を焦せども、
湯の徳これを済えば、数有るが如くにして、而も数無きが如し。
秦の始皇帝、天下を一にして尊号を称す。威燄まことに当る可からず。
然れども水神ありて華陰の夜に現われ、璧を使者に托して、今年祖龍死せんと曰ば、
果して始皇やがて沙丘に崩ぜり。
唐の玄宗、開元は三十年の太平を享け、天宝は十四年の華奢をほしいまゝにせり。
然れども開元の盛時に当りて、一行阿闍梨、陛下万里に行幸して、聖祚疆無からんと奏したりしかば、
心得がたきことを白すよとおぼされしが、安禄山の乱起りて、天宝十五年蜀に入りたもうに及び、
万里橋にさしかゝりて瞿然として悟り玉えりとなり。此等を思えば、数無きに似たれども、而も数有るに似たり。
定命録、続定命録、前定録、感定録等、小説野乗の記するところを見れば、吉凶禍福は、
皆定数ありて飲啄笑哭も、悉く天意に因るかと疑わる。
されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。仮令数ありとするも、測り難きは数なり。
測り難きの数を畏れて、巫覡卜相の徒の前に首を俯せんよりは、
知る可きの道に従いて、古聖前賢の教の下に心を安くせんには如かじ。
かつや人の常情、敗れたる者は天の命を称して歎じ、成れる者は己の力を説きて誇る。
二者共に陋とすべし。事敗れて之を吾が徳の足らざるに帰し、功成って之を数の定まる有るに委ねなば、
其人偽らずして真、其器小ならずして偉なりというべし。
先哲曰く、知る者は言わず、言う者は知らずと。
数を言う者は数を知らずして、数を言わざる者或は能く数を知らん。
【解説】
洪水天に滔るも ~
〔原文〕
洪水天に滔るも、禹の功これを治め、大旱地を焦せども、
湯の徳これを済えば、数有るが如くにして、而も数無きが如し。
〔現代文〕
洪水が世界にあふれている時に禹(う)が功績を挙げて治めたように、
大ひでりによって地が焦げてしまっても、湯(とう)の徳で窮地を救ったように、
天命があるようでもあり、天命など無いようだ。
〔語彙説明〕
禹(う)・・・ チャイナ、夏王朝の創始者、失敗により処罰された父・鯀(こん)の治水事業を引き継いで成し遂げた。
湯(とう)・・・ 別名、天乙。チャイナ、殷王朝の創始者、旱魃の際自らが生贄になろうとした。
数(すう)・・・ 「運命、天命」などを表す。
〔故事〕
参考:名文「洪水天に滔る」