『蘆刈』  著:谷崎潤一郎 より一部抜粋   赤字が出題された箇所


 洞庭湖(どうていこ)の杜詩(とし)や琵琶行(びわこう)の文句や赤壁賦(せきへきのふ)の一節など、

長いこと想い出すおりもなかった耳ざわりのいい漢文のことばが、おのずから朗々(ろうろう)たるひびきを(もっ)

唇にのぼって来る。

 そういえば「あらはれわたるよどの川舟」と景樹が詠んでいるようにむかしはこういう晩にも三十石船をはじめとして

沢山の船がここを上下していたのであろうが、今はあの渡船(とせん)がたまに五、六人の客を運んでいる外には

まったく船らしいものの影もみえない。

 わたしは提げてきた正宗の(びん)を口につけて喇叭(らっぱ)飲みしながら


 〔原文〕 潯陽江頭夜送客、楓葉荻花秋瑟々

 〔読み下し文〕 じんようこうとう よるきゃくをおくる、ふうようてっか あきしつしつ


と酔いの発するままにこえを挙げて(ぎん)じた。

 そして吟じながら、ふと考えたことというのは、この蘆荻(ろてき)()いしげるあたりにもかつては

白楽天(はくらくてん)の琵琶行に似たような情景がいくたびか演ぜられたであろうという一事であった。

 江口や神崎がこの川下のちかいところにあったとすれば、さだめしちいさな葦分(あしわ)(ぶね)

あやつりながらここらあたりを徘徊(はいかい)した遊女も少くなかったであろう。



【解説】

〇 洞庭湖(どうていこ)杜詩(とし)

  洞庭湖を望んで、張丞相(ちょうじょうしょう)(張九齢のことと思われる)に贈った孟浩然(もうこうねん)の詩。

  孟浩然が張丞相に暗に任官の斡旋をたのみこんでいる詩。
  洞庭湖は湖南省北東部にあるチャイナ最大の淡水湖で、その湖畔にあるのが岳陽楼。

  孟浩然は、盛唐の代表的な詩人。襄州襄陽の人。「春暁」の作者として知られる。
  自然を歌った詩に傑作が多い。
  若くして任俠の徒と交わり諸国を遍歴し、長安に出て王維、李白、張九齢らと交流を持つ。

  李白にとっては、孟浩然は詩業の先輩にあたり、大変尊敬していた。
  杜甫の「登岳陽楼」(岳陽楼に登る)と、蘇東坡の「湖上に飲す初め晴れ後に雨ふる」は有名。
  当該詩は「登岳陽楼」と並び、岳陽楼をうたった詩の双璧。

〇 琵琶行(びわこう)の文句

  チャイナ、唐代の白居易(白楽天)の七言詩。88句616字から成る長編抒情詩(じょじょうし)。元和 10(815年)成立。
  白居易が江州(江西省)の司馬(知事の下僚)に左遷され失意のうちにあった時期の作品。
  翌年秋の月夜、波止場に人を送って、琵琶を弾く零落した長安の妓女(ぎじょ)に出会い、哀れな身の上話に、
  自らの流謫の悲しみを重ね合わせて作ったもの。
  13世紀元代の劇作家・馬致遠によって『青衫泪(せいさんるい)』と題する歌劇にも仕立てられた。
  後世多くの戯曲の題材となり、日本でも『源氏物語』以後の文学に影響した。
  『長恨歌(ちょうごんか)』と並ぶ傑作。

〇 赤壁賦(せきへきのふ)

  チャイナ、北宋の賦。蘇軾(そしょく) の作。元豊5 (1082) 年成立。
  政争のため同3年都を追われ黄州 (湖北省) に流された作者が、翌々年7月長江(揚子江)中の赤壁に遊んだときの
  ありさまを記したもの。同年 10月に続編をつくった。
  7月の作を『前赤壁賦』(537字)、10月の作を『後赤壁賦』(357字)と呼ぶ。

  「賦」は漢代に始まる伝統ある韻文の一形式であるが、蘇軾はそれを「文賦(ぶんのふ)」の名で呼ばれる抒情(じょじょう)ゆたかな
  文学として完成した。2編の賦は蘇軾の文学を代表する傑作で、宋一代の絶唱として人々に愛されている。

  いずれも友と連れ立った舟遊びの楽しさを、きびしい自然に対する畏怖と、はかない人生に対する悲哀とともに、
  才気あふれた筆で述べる。
  賦のなかで『三国志』で有名な赤壁の戦いの回想が入るが、実際の古戦場はずっと上流の同名の地である。
  (武漢市の西にある赤鼻山を古戦場の赤壁と誤って遊覧した。)

  漢代に栄えた賦は、宋代に入ると「文賦(ぶんのふ)」と呼ばれて著しく散文化したが、『赤壁賦』はその代表的傑作である
  とともに、チャイナの賦のなかでも最も有名な作品である。




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