『銭形平次捕物控』 「戀をせぬ女」 一 (こいをせぬおんな) 著:野村胡堂 より一部抜粋
【還暦ジジイの解説】
題名「戀をせぬ女」の「戀」は、正字。新字(略字)では「恋」と書きますから、「恋をせぬ女」です。悪しからず。
菊坂小町と呼ばれた美人、小森屋のお通(つう)が昨夜殺されたと八五郎が怒鳴りこんで来た。
臺町の由松親分が、平次に助っ人を頼みに向かう途中、八五郎が、丁度、バッタリ出遭い、引き受けて来た。
【本文】 註:旧かな遣い、正漢字で書かれています。
お通の父親といふのは、小森彌八郎といふ、かなりの分限者で、昔は槍一筋の家柄であつたと言ひますが、今では町内の大地主として、界隈に勢力を振ひ、娘のお通の美しさと共に、山の手中に響いて居ります。
<中略>
主人の彌八郎は一應平次を迎えましたが、激しい動亂に、急には言葉も出ない樣子です。
五十前後のすぐれた人品で、江戸の分限者らしい中老人ですが、かうした見かけのうちに、案外の情熱を持つてゐるのかもわかりません。
<中略>
心臟を一と突き、恐らく若い娘は、聲も立てずに死んだことでせう。
「胸にこれが突つ立つて居りました」
甥の鐵之助は、部屋の隅から、手拭に包んだ眞矢を一本持つて來て見せました。
鷹の羽を矧いだ古い征矢ですが、矢の根が確りして居り、それがベツトリ血に塗れて、紫色になつて居るのも無氣味です。
「これでやつたのかな」
【語彙説明】
〇臺町/台町(だいまち) ・・・ 現在:品川台(臺)町
〇分限者(ぶげんしや/ぶんげんしゃ/ぶげんもの) ・・・ 金持。物持。長者。長者。富豪。
〇一應/一応(いちおう) ・・・ 十分ではないが、ひととおり。大略。
〇動亂/動乱 ・・・ 世の中が動揺し、乱れること。今回の場合は、「動揺」と同じ意味だろう。
〇中老人(ちゅうろうじん) ・・・ 五十歳ぐらいの年ごろ。また、その人。四十歳を初老というのに対する。
〇眞矢/真矢(ほんや) ・・・ <<現在、調査中>>
〇羽(はね)を矧(は)ぐ ・・・ 矢竹に羽をつけて矢を作る。
〇征矢/征箭(そや) ・・・ 戦場で使う矢。⇔ 狩り矢・的矢。