『銭形平次捕物控』 「群盗」 一 (ぐんとう) 著:野村胡堂 より一部抜粋
【還暦ジジイの解説】
平次と八五郎が、観音様にお詣りした帰り、人集りを掻き分けてみると、二人の若い男女が怪我をして崩折れていた。
町人風の三十前後の真面目そうな男は、山之助(さんのすけ)と言い、額から血を流していた。
旅姿の娘は、腹違いの妹でお比奈(ひな)と言うらしい。
二人は遠州浜松の生まれで、父の敵を討つ為に、江戸へ来て十年。
武術の心得があるわけでもなく、もう、遭わなければ良いと思っていた。
それが、今日、偶然にも、数人の仲間を伴った敵と出遭った。
敵の方がこちらを憶えていて、面白半分に袋叩きにされていたところに、丁度、平次が通りがかった。
【本文】 註:旧かな遣い、正漢字で書かれています。
「返討ちは穩やかぢやないな、―― 一體どうしたといふのだ。いや、此處ぢや人立がして叶はない。八、そこいらの茶店の奧を借りるんだ、お前は娘さんを――」
平次は眼顏で八五郎に合圖すると、直ぐ傍の茶店の奧へ若い男をつれ込みました。
その後から、旅姿の娘に肩を貸して、同じ茶店の奧へ入つて來る、八五郎の甘酢ぱい顏といふものは――。
何しろ娘の可愛らしさは非凡でした。
旅姿も舞臺へ出て來た名ある娘形のやうで、汗にも埃にも塗れず、腋の下から芳芬として青春が匂ふのです。
「先づ、その傷の手當てをするがいゝ」
奧へ入つた平次は、若い男の右小鬢の傷を、茶店で出してくれた燒酎で洗つて、たしなみの膏藥をつけ、ザツと晒木綿を卷いてやりました。
打ちどころが惡くて、ひどく血は出ましたが、幸ひ大した傷ではなく、かうして置けば四五日で治りさうにも見えます。
【語彙説明】
〇此處/此処(ここ) ・・・ 話し手が現にいる場所をさす。
〇人立(ひとだち) ・・・ ひとだかり(人集)。
〇舞臺/舞台(ぶたい) ・・・ 舞踊・演劇・音楽などを行うために設けられた場所。ステージ。
〇芳芬(はうふん/ほうふん) ・・・ かんばしいにおい。よい香り。
註:原文では「芳粉」と記しているが、辞書になく、「芳芬」の誤りではないか、と思うので、ここではこの字を用いた。
〇たしなみ ・・・ ふだんの心がけ。用意。 「たしなみの膏薬」は、普段用意して携帯している軟膏薬の意。