『銭形平次捕物控』 「遠眼鏡の殿様」 一  (とおめがねのとのさま)  著:野村胡堂 より一部抜粋


【還暦ジジイの解説】


 四谷伊賀町(よつやいがまち)に三千石の大身で伊賀井大三郎(いがいだいざぶろう)という旗本が居た。

 無役(むやく)で裕福で、暇を持て余している。

 その殿様が和蘭舶来(おらんだはくらい)の遠眼鏡を手に入れて、二階からあちらこちらを眺めていると、若くて綺麗な娘を見付けた。


【本文】 註:旧かな遣い、正漢字で書かれています。会話の先頭のカッコ()内の名前は、還暦ジジイが追記したもの原文には無い。


(八五郎) 「お君は山の手一番と言はれた好い娘ですよ。年は十九で色白で愛嬌(あいきやう)があつて、色つぽくて、糝粉細工(しんこざいく)のやうに綺麗だ――裏へ出て洗濯か何かして、腰を伸ばして家の中の妹と話をして、思はずニツコリしたところを、二三十間先から遠眼鏡で見た殿樣は、自分へ見せた笑顏だと思ひ込んでしまつた、――恐ろしい早合點ですね」

<中略>

(八五郎) 「殿樣は人橋を架けて清水屋に掛け合ひ、娘お君を奉公に出せといふ無理難題だ。奉公といふのは、申す迄もなく手掛け奉公だが、清水屋には行く/\はお君と一緒にするつもりで、親類から貰つた市太郎といふ養子がゐる」

(平次) 「面倒だな」

(八五郎) 「その人橋の中には、伊賀井家へ出入りしてゐる植木屋辰五郎の女房で、お瀧といふ凄いのがゐる。

こいつはもと品川で勤めをしてゐた三十女で、以前は武家の出だといふが、自墮落(じだらく)の身を持崩して、女の(みさを)なんてものを、しやもじの(あか)ほどにも思つちやゐない。

伊賀井の殿樣に惡智慧をつけて、八方から清水屋の父娘(おやこ)を責めさいなんだ。金づく、義理づく、それでもいけないとなると、今度は腕づくで(おど)かした」


 三千石の裕福な殿樣が、吹けば飛ぶやうな裏町の小間物屋に加へた壓迫(あつぱく)の手は、殘酷で執拗(しつあう)惡辣(あくらつ)を極めたのでした。

 品川の女郎上がりのお瀧――恥も外聞もとうの昔に()りきらしてしまつた凄い年増が軍師で、十九娘のお君が、好色の旗本の人身御供(ひとみごくう)に上るまでの經繹(いきさつ)は、平次にはよくわかるやうな氣がするのです。

 ガラツ八の話はまだ續きます。

 「―― 一方では伊賀井の殿樣の奧方――彌生(やよひ)の方は、御主人の氣違ひ沙汰に取逆上(とりのぼせ)て、これは本當に氣が變になり、一と間に押し込められて、(てい)のいゝ座敷牢暮しをするやうになつた。

それをまたいゝことにして、いよ/\清水屋を説き落し、大枚三百兩の支度金まで投げ出して、いよ/\明日の晩は、お君を伊賀井家に乘込ませると決つた――昨夜(ゆふべ)になつて、肝心(かんじん)のお君は自分の家の裏口で、植木屋の女房のお瀧は、お湯の歸りをそこから一丁とも離れてゐない御假屋横町(おかりやよこちょう)の入口で、背中から一と突きにやられて死んでゐるぢやありませんか。お瀧なんぞいゝ氣味だが――」

 「何んと言ふ口をきくのだ」
   


【語彙説明】


〇旗本(はたもと) ・・・ 将軍に仕える三河以来の直臣の家臣を旗本と呼ぶ。「禄高く権少し」と云い、禄高一万石未満であった。<参照>

〇和蘭舶来(おらんだはくらい) ・・・ オランダは、徳川幕府とキリスト教布教禁止に応じて、長崎の出島を介して、唯一貿易を行った国。

 舶来(はくらい)は、外国から輸入した物のこと。

〇糝粉細工(しんこざいく) ・・・ 糝粉(しんこ)とは、うるち米を水洗いして乾燥したのち粉にしたもの。新粉とも書き、米粉(こめこ)と呼ぶこともある。普通品を並新粉、きめの細かい上質品を上新粉、上用粉と呼ぶことも多い。
 各種のだんご、鶴の子餅、寿甘(すあま)、切りザンショウ、ういろう、柏餅、草餅、薯蕷(しよよ)まんじゅう、塩せんべいなど、和菓子の材料として広く用いられる。
 新粉を水でこねて蒸し、それをついたものが新粉餅で、これでさまざまな物の形をつくるのが新粉細工である。

〇人橋(ひとばし) ・・・ なかだちをする人。

〇手掛け奉公(てがけぼうこう) ・・・ 「手掛け」は、下女など立場が弱い者と主人が関係を結ぶこと。「手掛け奉公」は、男女の関係を結ぶことを第一の目的として、奉公人として雇うこと。

〇行く/\(ゆくゆく) ・・・ のちのち。あとあと。将来。

〇取逆上(とりのぼせ)て ・・・ 感情がたかぶって分別を失う。逆上する。

〇御假屋横町(おかりやよこちょう) ・・・ 現町名:新宿区四谷二丁目、四谷三栄町



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