『銭形平次捕物控』 「復讐鬼の姿」 四 (ふくしゅうきのすがた) 著:野村胡堂 より一部抜粋
【還暦ジジイの解説】
「脂下り」とは、どういう意味か、
雁首を目の前に持ち上げ、片肘を張って煙管を咥える動作が、いかにももったいぶって気どった構えに見える。
この姿から、得意然とした高慢な態度、あるいは、さも理由ありげな態度をとることの形容として使われた。
なるほどね~
時代劇によく見掛ける姿です。
こ頃は、平次は未だお静と所帯を持っていません。婚約をしていたときです。
【本文】 註:旧かな遣い、正漢字で書かれています。
何の氣もなくお勝手へ下がらうとすると、日頃仲のよくない石原の利助が、閉めきつた納戸の前に座布團を敷いて、少し脂下がりに安煙草の輪を吹いて居ります。
「お、石原の兄哥。どうしたい」
「錢形のか、久し振りだつたな」
「驅け違つて久しく逢はねえが、其處で何をして居るんだ」
「なアに、何でもねえよ」
「――」
少し妙な調子――、頭の早い平次は、仔細ありと見て取つて、その上追及をせずに、天氣の挨拶かなんかをして引下がつてしまひました。
お勝手口から、八丁堀の往來へ出ると、
「ちよいと、親分、待つて下さいな」
少し息を切つて追つて來たのは、先刻お勝手でチラリと顏だけ見せたお靜です。
「何だ、お靜坊か。親分てえ奴があるかい」
「だつて、私には何と呼んでいゝかわからない」
「まアいゝやな。まさかこちの人とも言へまいから、何とでも言つて置くがいゝやな」
「あら」
「ところで用件は何だ。美しいところを見せようて寸法ばかりぢやあるまいね。大方納戸の前に頑張つて居る石原の一件だらう」
「え、さうよ、大變な事が始まつたんです。お吉さんが可哀想で、可哀想で」
「何をいきなり涙含みやがるんだ。順序を立てて話して見るがいゝ」
捕物の名人錢形の平次と一時兩國で鳴らした美しいお靜とは、人目と陽射を避さけて、街の片蔭へ入りました。
【語彙説明】
〇脂下り(やにさがり) ・・・ くわえたきせるの雁首を上にあげてたばこを吸うこと。
こうすると、雁首にたまったたばこの脂が、羅宇を通って吸い口に下がってくるところからこのように言う。
雁首を目の前に持ち上げ、片肘を張ってきせるをくわえる動作が、いかにももったいぶって気どった構えであることより、得意然とした高慢な態度、あるいは、さもわけありげな態度をとることをいったが、現在では、いい気分になってニヤニヤすることを形容していう。
〇兄哥(あにい/あにき) ・・・ 兄貴(あにき)、兄(あに)
〇こちの人/此方の人(こちのひと) ・・・ 1. 三人称の人代名詞。妻が夫をさしていう語。うちの人。 「こちの人が京からの帰りを待って」 2.二人称の人代名詞。妻が夫に向かっていう語。あなた。 「こちの人、こちの人と呼び起こしければ」
〇涙含(なみだぐ)む ・・・ 当て字読み。目に涙を含む。涙がこぼれ出そうになる。目に涙をためる。涙を催す。
〇陽射/日差し(ひざし) ・・・ 日の光がさすこと。また、その日の光。
〇片蔭(かたかげ) ・・・ 物陰。俳諧の夏の季語である片蔭は、暑い日差しを受け、建物や塀が作る影のこと。