『銭形平次捕物控』 「月の隈」 三 (つきのくま) 著:野村胡堂 より一部抜粋
【還暦ジジイの解説】
銭形平次の話は、平次とガラッ八の冒頭の会話が面白い。
まあ、漫才である。
胡堂、上手いな~
【本文】 註:旧かな遣い、正漢字で書かれています。
(平次) 「それから、昨夜裏口から土藏の前のあたりは、よつ程明るかつたのか」
(八五郎) 「月は屋根を離れて高くなりかけてゐましたから、暗い家の中から飛び出すと、四方はよく見えました」
「物の蔭があつたらう。庇の下とか、建物の袖とか、人間が隱れてゐられるくらゐはあつた筈だと思ふが」
「いえ、御覽の通りで、人一人隱れるやうな場所はありません。井戸の中へでも入つてブラ下がつてゐれば別ですが、
車井戸ですから、そんなことをするとすぐ判ります」
「――」
「土藏の入口は霧除けの下で一寸薄暗かつただけ、あとは何んの蔭もない場所です。
親父が『逃げた』と言つた時、四方を見廻しましたが、木戸は締つてゐましたし、この邊には誰もゐなかつたことは確かです。
すると間もなく裏口から徳松どんが飛び出して來ました」
「それから」
「つゞいてお福が出たやうです。あとは五六人一緒でしたから、誰が誰やらわかりません」
かう言はれると、家の中に下手人があると思ひ込んだ、平次の鑑定も怪しくなります。
「ところでもう一つ訊きたいが、翁屋の商賣の方はどうだつたんだ。あまり良くない噂を聽いたやうに思ふが・・・」
「こゝだけの話でせうか、親分」
孫三郎は不安らしく八五郎を見上げました。
三十を少し越したばかりの苦み走つたといふよりは、少し粗野な感じのする男ですが、何んとなく血の氣の多い純情家らしくもあります。
「この場限りだよ、誰にも言ふわけぢやない」
「それなら申しますが、――實はあまり良くない方で――」
「若主人の費ひ方がひどかつたやうだな」
「そればかりぢやございません。商賣も手違ひがありました。この暮は大難場で、問屋筋の拂ひだけでも
二千兩は要る筈ですが、親父は一生懸命に工夫をして千兩ばかり拵へ、それを土藏の中に置いたのです」
【語彙説明】
〇車井戸(くるまいど) ・・・ 掘り井戸から水を汲みあげるのに車(滑車)を使うことによって名づけられた井戸で、釣瓶井戸の一種。車釣瓶ともいい、井戸の上に溝のある滑車を吊るし、その溝に釣瓶縄をかけ、縄の両端に釣瓶をつけて縄をたぐって水を汲みあげる井戸である。<詳細 コトバンク>
〇大難場(おおなんば) ・・・ 困難な場所・場面。難所。