『銭形平次捕物控』 「井戸の茶碗」 四 (いどのちゃわん) 著:野村胡堂 より一部抜粋
【還暦ジジイの解説】
「箱や袋が揃っていれば、三百両にも五百両にもなるが、五十両で売ってくれたら、十両までお礼を出す」
と言う条件で、茶碗を預かったが、暫くすると
「金の都合がついたから、茶碗を返してくれ、と持って帰りましたよ。」
と、古道具屋の親爺は、銭形平次に話した。
この親爺の話は、奇怪しい。
私が古道具屋の親爺なら、知り合いの目利きに茶碗を見せて、本物かどうか、調べる。
本物なら、十両どころじゃない儲けになるのは明らかだ。
だから、黙って返却なんてするものか(笑)
やっぱり、ねっ!銭形平次は、流石です!
【本文】 註:旧かな遣い、正漢字で書かれています。
「若い娘?」
「へエ、目のさめるやうな娘でしたよ。――身裝は惡かつたが、あんな綺麗なのは、神明にも狸穴にもありません」
「それがどうした」
「大事の品だが、どうしてもお金に代へなきやならない。箱や袋が揃つてゐれば、三百兩にも五百兩にもなる。
茶碗だけでも見る人が見たら、百兩にも二百兩にもなるだらうが、大道でそんなことを言つても通用しないだらうから、
せめて五十兩に賣つてくれ。賣れたら十兩までお禮を出すといふ話で、へエ」
「それから」
「大して店塞ぎになる品でもございません。賣れて十兩の口錢なら惡い商賣ぢやないと思つて、七日ばかり並べて置きました」
「客が付いたのか」
「毎晩二人三人はきつと目をつけますが、値段を言ふとそれつきりになります。その中で、手付を置いたのが二人」
「どんな樣子の人間だ」
「一人は六十五六の立派な御隱居で、すぐ引返してくると言つてそれつきりになり、その次は三十七八の古道具屋の手代と言つた樣子の男でしたが、これも一兩の手金を置いて行つたきり、二日經つても品を取りに來ません」
「フーム」
「そのうちに茶碗を預けた娘さんが來て、どうやら金の都合がつくやうになつたから、茶碗を返してくれ――と。
今度は立派な箱を持つて來て――それへ入れて持つて歸りましたよ。
十兩の口錢は取り損ねましたが、手金が二度に四兩も入りましたから、まア/\良い商賣で――」
「立派な箱を持つて取りに來たのだな」
「へエ。内箱は桐の白木で、外箱は塗がありました。袋は緞子――」
「箱や袋が揃へば、五百兩もすると言つたな」
「へエ。――私ぢや眼は屆きませんが、その娘さんが確かにそんなことを言ひました」
「來いツ!、親爺」
「へエ?!」
平次の言葉の激しさに、長兵衞は、ハツと立ち竦みました。
「素性人別も判らない者から、そんな大事な品を預つて濟むと思ふか。叩けば埃の出る野郎だ、來いツ」
平次に手首をグイと掴まれて、親爺は一ぺんに悲鳴をあげたのです。
「あツ、親分。そいつは殺生だ。私は何んにも知りません。お許しを願ひます」
「知らないで濟むと思ふか。縛られるのが嫌だつたら、その娘の家を搜し出せツ」
「親分」
「八、構ふことはない。存分に縛り上げろ、そいつは贓品買ひだ」
「野郎ツ」
八五郎が飛び付き樣、滅茶々々に縛り上げたことは言ふまでもありません。
「謝まつた、親分。言ひますよ、皆んな申上げますよ」
ボケ茄子の長兵衞は、他愛もなく兜を脱いでしまひました。
その白状によると、娘が井戸の茶碗を持つて來たことも事實、素性も家も教へなかつたことも事實ですが、
見掛けよりも賢こさうな長兵衞は、最後に茶碗を受取つて歸る娘の跡をつけて、その家を突き留め、
その入口に坐り込んで五兩といふ口留料をせしめて來たといふのです。
「太い奴だが、次第によつては許してやる。案内しろ」
「へエ――」
否も應もありません。平次とガラツ八は長兵衞を引立てて源助町まで飛びました。
今度こそは一擧に事件の謎が解けさうです。
【語彙説明】
〇神明(しんめい) ・・・ 超自然的な存在。あらたかな神。神。神祇(じんぎ)。
〇狸穴(まみあな) ・・・ 東京都港区のほぼ中央にある地区で、正しくは麻布狸穴町。麻布台とよぶ台地の南端にあり、江戸時代、タヌキの出没するような寂しい所であった。
〇店塞(みせふさ)ぎ ・・・
〇塗(ぬ)り ・・・ 漆塗りのことを指す。
〇緞子(どんす) ・・・ 繻子織時地に繻子織の裏組織で模様を織り出した織物。厚地で光沢があり、どっしりとした高級感がある。
〇贓品(けいづ)買(か)い ・・・ 窩主買「けいずがい」の当て字。盗品と知りながら、それを売買すること。また、その商人。
贓品(ぞうひん) ・・・ 賄賂、盗みなどの不正な手段で得た品物。贓物(ぞうもつ/ぞうぶつ)。
〇口留料/口止料(くちどめりやう/くちどめりょう) ・・・ ある事を他人に話すのを禁じるための金品。
〇否(いや)も應(おう)もなく ・・・ 好むと好まないにかかわらず。承知でも不承知でも。なんとしてでも。ぜひとも。