『銭形平次捕物控』 「身投げする女」 三 (みなげするおんな) 著:野村胡堂 より一部抜粋
【還暦ジジイの解説】
「下腹に毛がない」の表現は、下ネタかなあ、と、思いますよね。
ところが、「老いた狼の下腹には毛がないといわれるところから、大悪人や老獪な人物のたとえ」だそうです。
【本文】
屑屋は自分の家へ笊を抛り込むと、黙って跟いて来ました。こんな事には慣れてる様子です。
町へ出ると縄暖簾の中を覗いて、人の居ないのを見定めてから入ると、樽天神をきめ込んで、
瞬く間に二本三本と倒します。
「さア、親分、訊いて下さい、何でも言いますぜ、へッへッへッ」
屑屋は酔いが廻ったらしく、胸をはだけて、可笑しくないのに卑屈な笑いようをしております。
「実は、あの路地の中に住んでいるお秋という娘のことだが ―― 」
八五郎は四方を見廻しながら小声で切出しました。
「へッ、へッ、へッ、―― 知ってますよ、親分も引っ掛けられた口でしょう。・・・枝ぶりの良い柳原の松ですかい、それとも両国の橋の上で ―― 」
「・・・?」
「土左衛門の真似がお秋がいかに女河童でも時候じゃないから、やはりブラ下がりの口かな」
屑屋はすっかり吞込んで、身振り入りで浮かれております。
「何だい、それは」
「知ってますよ、親分、―― 親が病気で身を売らなきゃならない ―― とか、主人が金を五十両落っことした・・・とか、泣きながら、恐ろしく色っぽく持ちかけるでしょう。あれが術なんで、へッへッへッ」
「・・・・・・」
<<中略>>
「ね、親分、悪いことは言わねえ、黙って帰んなさい、荒立てると恥を大きくするばかりだ。
あのお秋という娘は、虫も殺さねえ顔をしているが、海千山千の、下っ腹に毛のねえエテ物さ。
丑松は飴屋崩れの凄い男で、お徳はその上を行く塩っ辛い大年増だ。
四つに組んでもトクのいく代物じゃねえ。屑屋を渡世の俺でさえ、あの三人はよけて通ることにしているのさ」
【語彙説明】
〇跟(つ)ける ・・・ 人のあとについていく。
〇樽天神(たるてんじん) ・・・ 「樽」は「酒飲みの腹のことで、転じて、酒飲みのこと」。「樽天神」とは、崇拝すべし呑兵衛のことで、馬鹿にしちゃあいけないと気取った言い方をしたものだろう。
〇下腹(したはら)に毛(け)がない ・・・ <老いた狼の下腹には毛がないといわれるところから>大悪人や老獪な人物のたとえ。
〇エテ物(もの) ・・・ 「エテ公」と同義で、猿を擬人化した表現。
エテ公(猿公)とは「猿」が「去る」とかに通じる忌み言葉であることから、反対の意味となる「得る」を用いたもので、手に入れる意味の「得手(えて)」という読み替えで、当てがわれた。そして『えて』に、俗語『公』を付け加えた言葉。
対象となる人物に親しみを込めたり、卑しめるときに使われる俗語『公』から成るもので、猿を擬人化した言い回し。
親しみを込めて使う場合と卑しみを込めて使う場合があるが、もともとは親しみを込めた言葉であった。
〇忌み言葉 ・・・ 禁句のこと。芸能の世界での「おから」は「客席が空(から)」の意味に繋がり、嫌われたので、「きらず」と呼び替えた。「吉原(よしはら)」は元々「芦原(あしはら)」であったが「あし」は「悪し」に繋がることから、嫌われたので、「吉原」と呼び替えた。猿(さる)の場合は「去る」に通じるため、商家を中心に朝の忌み言葉とされていた。