『銭形平次捕物控』 「兵糧丸秘聞」 十 (ひょうろんがんひぶん) 著:野村胡堂 より一部抜粋
【還暦ジジイの解説】
兵糧丸とは、ご想像の通り、半永久の携帯食料。
戦の折に、弁当を持ち歩くのは面倒である。
茱萸一粒ほどの大きさで、腹を満たす上に栄養が足りれば、持ち運びが楽な上に、何日分も携帯可能である。
兵站の食糧に措ける大発明となる。
籠城戦に措いても、通常の何十倍もの貯蔵が可能で、それを知らぬ敵と戦えば、戦況は大いに有利である。
元々は忍者が用いていたらしいが、各国に広まって、それぞれの工夫が施され、極秘情報だったんですね。
【本文】
(盛岡十万石、南部大膳大夫の二番家老・桜庭兵介と平次の会話)
(平次) 「ところで、つかぬ事を伺いますが、御当家の兵糧丸処方が紛失したことはございますまいか」
平次はいきなり話頭を転じました。
(桜庭) 「いつぞやも、そのような事を訊ねて来た男があった ―― が、南部兵糧丸は天下知名の秘薬じゃ。
臣下と雖も濫りに知ることは相成らぬ。
殊に、泰平の今日、兵糧丸などはまず世に出ぬ方がよいとしたものであろう」
「恐れ入ります」
「御領地盛岡の不来方城宝蔵に什襲してあるが、それが何とか致したか」
「いえ、―― ところでその兵糧丸を用いられたのは、いつの事でございましょう。一番近いところで ――」
「左様、近頃はトンと聞かぬが、天正十八年(一五九〇)に一族九戸政実が叛いた時、
南部の福岡城で用いたということが伝わっている」
「どちらが用いましたので」
「攻め手は南部藩に、仙台会津の援兵二万人という大軍だが、兵糧も充分あり、兵糧丸の世話にならなかった。
敵は謀反人の九戸政実一族五千人、福岡城を死守したから、そのとき城中に貯えてあった南部の兵糧丸を用いたことと思う。
もっとも兵糧丸の法書きは盛岡の不来方城から一度も出した事がない」
「九戸政実の一族はどうなりました」
「皆死んだよ。城中の男女数百人を櫓に置いて自ら火をかけ、
党類三十余人は誅せられて首を京師に送った――とある」
「その九戸の一族で今日まで生き残る者はございませんか」
【語彙説明】
〇南部大膳大夫(なんぶだいぜんだいぶ) ・・・ 南部 利用(なんぶ としもち)。江戸時代後期の大名。陸奥国盛岡藩の第11代藩主。官位は従四位下・大膳大夫。
南部 重信(なんぶ しげのぶ) ・・・ 江戸時代前期から中期にかけての大名で、陸奥盛岡藩の第3代藩主。南部氏の第29代当主。父は南部利直。
大膳職(だいぜんしき/おおかしわでのつかさ)・・・日本の律令制において宮内省に属する官司。朝廷において臣下に対する饗膳を供する機関である。大宝律令以前は膳職という官司であったが、大宝律令制定時に、天皇の食事を掌る内膳司と饗膳の食事を掌る大膳職に分割された。
大夫(たいふ/だいぶ/たゆう)・・・太夫(たゆう)とも表記し、律令制では太政官においては三位以上、寮においては四位以上、やがて時代が下ると五位の通称となった。さらに転じて身分のある者への呼びかけ、人物の呼称として色々な意味を持つようになった。
〇宝蔵(ほうぞう) ・・・ 宝物を納めておくくら。貴重な物品などを保管しておく建物。宝庫。たからぐら。
〇什襲(じゅうしゅう) ・・・ 「什」は「十」で、「襲」は「重」。十重(じゅうじゅう)と同じ意味。幾重にも包んで大切にしまっておくこと。
十重(じゅうじゅう/とえ) ・・・ 物が十、重なること。十かさね。例文「十重二十重(とえはたえ)」
〇誅(ちゅう)する ・・・ 悪人や罪のある者を殺す。成敗する。
〇京師(けいし) ・・・ 「京」は大、「師」は衆。よって、大衆の居住する所の意。みやこ。帝都(ていと)。