『銭形平次捕物控』 「兵糧丸秘聞」 二 (ひょうろんがんひぶん) 著:野村胡堂 より一部抜粋


【還暦ジジイの解説】


 「御守殿崩(ごしゅでんくず)し」って、聞いたことないですねえ。

 日本髪の髪型だったんですね。

 「見附(みつけ)を越す」ってのも、江戸城の知識が多少なけりゃあ、解らない言葉です。

 こういう言葉を一つ一つ知ると、江戸城下町を歩いている様な気分になって、楽しいですね。

 話は、ゴロっと変りますが、私が一番興味あるのは、江戸時代の厠なんですね。トイレ。

 江戸時代だけじゃなく、平安時代から。

 どうしてたのかなあ~って(笑)

 本当は、、世界中の古代から近代までのトイレ事情を知りたいんですけどね。

 恋愛や戦争の話は、山ほどありますが、トイレ事情だけは、世界中、どこにも無い。


【本文】

(八五郎) 「親分ッ」

(平次) 「あツ、八か、()うしたんだ。何處(どこ)(どぶ)から()ひ上がつて來たんだ」」

木戸を押し倒すやうに、いきなり庭先へ入つて來た八五郎の風態(ふうてい)は、全く溝から這ひ上がつて來た(ねずみ)のやうでした。

「親分、口惜(くや)しいよ、女と思つて油斷をすると、いきなり突き飛ばしやがるんだ」

「女に突き飛ばされたのを吹聽(ふいちやう)したつて手柄になるかい。井戸端へ行つて水でもかぶつて來な、馬鹿野郎」

「ヘエ――」

八五郎は返す言葉もなく井戸端へ廻りました。

間もなく寒垢離(かんごり)を取るやうな水の音、晝下(ひるさ)がりの陽射しはポカポカするやうでも正月四日の寒さに、水のお音を聽いただけでゾツと身顫(みぶる)ひが出ます。


 <中略>


(八五郎) 「側へよつて首實檢(くびじつけん)をしようと思つたが、()うしても(つら)を見せねえ、後ろから覗くやうにすると、いきなり筋違見附(すじかひみつけ)の方へスタスタ驅け出すぢやありませんか」

(平次) 「・・・・・」

(八五郎) 「五六町追つ驅けたが、女のくせに恐ろしく足が(はえ)え、――それに御守殿(ごしゅでん)崩し襟脚(えりあし)が滅法綺麗だ」

(平次) 「何? 御守殿崩し?」

 「まさか椎茸髱(しいたけたぼ)ぢやねえが、間違ひもなく武家の内儀だ。(とし)は二十五六、――もう少し若いかな」

 「それが()うした」

 「だんだん人足(ひとあし)は多くなるし、見附(みつけ)を越し駕籠(かご)にでも乘られるとうるせえ、後ろから追いついて、

いきなり(ねえ)さんちよいと待つて貰はうか――と袖を引くと振り向きもせずにあつしの手を(はら)つた」

 「フーム」

 「(しやく)にさはるから、御用ツと首筋へ武者振り付くと身をかはしてデンと來あがつた。それで顏も見せねえんだから凄い腕前だ」

 「馬鹿野郎、女に溝へ投り込まれて感心する奴があるかい」

 「天下の八五郎を(どぶ)へ投り込む女は、江戸(ひろ)しと(いへど)もたんとあるわけはねえ」

 「呆れた野郎だ――それで手掛りもフイだらう。默つて正直に後を()けて行きや宜いものを」

 平次の言ふのは尤もでした。相手に(さと)られずに()ける氣になつたら、思ひの外早く曲者(くせもの)の身元が解つたかも知れないのです。

 「親分、勘辨(かんべん)しておくんなさい。女に()められたのは(へそ)の緒切つて以來だ」

 「嘘を()け、女には舐められ通しぢやないか」

 「へツへツへツ、()つ破拔いちやいけねえ」

 ガラツ八は苦笑ひをし(なが)らピヨコリと頭を下げました。これが精一杯の陳謝の心持でせう。

 膝つ小僧がハミ出して、道化たうちにも、妙に打ち(しを)れた姿が物の哀れを覺えさせます。


【語彙説明】

〇寒垢離(かんごり) ・・・ 寒中に冷水を浴びて心身を清め、神仏に祈願すること。「―を取る」などと使う。

〇筋違見附(すじちがいみつけ) ・・・ 神田明神下近くにあった城門の見附。

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〇御守殿崩し(ごしゅでんくず・し) ・・・ 御守殿風の髪形を崩したもの。

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〇椎茸髱(しいたけたぼ) ・・・ 江戸時代、御殿女中の間に行われた髱(たぼ)の名称。張り出した髱の形がシイタケに似ているところから。髱を平たくして、油でカチカチに固めた状態にしてあるものを云う。御殿で働く格の高い女性などに使われ、髪の毛一本も乱さないようにという厳格さを表現している。

髱(たぼ)は、江戸の言葉。関西では「髩」と書いて「つと」と呼んでいたらしい。〔参照:日本国語大辞典 2002年12月20日第二版〕

〇人足(ひとあし) ・・・ 人のゆきき。往来。「にんそく」と読むと、荷物の運搬などの力仕事の労働者のこと。

〇見附でも越して ・・・ 見附とは、枡形をもつ城門の外側の門で、見張りの者が置かれ通行人を監視した所で、「見附を越す」とは、江戸城内へ入ること。



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