『銭形平次捕物控』 「死の踊り子」 (しのおどりこ) 著:野村胡堂 より一部抜粋


【還暦ジジイの解説】


 夏目漱石の『坊ちゃん』『吾輩は猫である』は、小説と云うより落語の台本じゃあないか、と思う。

 銭形平次の冒頭に出て来る平次と八五郎のやり取りは、完全に落語に登場する、隠居老人と熊さんのそれである。

 私は寄席の客席を想像して笑う。


 銭形平次を読んでいると、知らない昔の言葉に遭遇する。

 嬉しくなってくる。

 今回は「立引く」と云う言葉。

 聞いたことが無い。


 場面は、八五郎がいつもの通り、平次宅の(あが)(かまち)に座っているのだが、女が来る約束に成っているらしく、

 入口ばかり気にかけて、落ち着かない。それを揶揄(からか)う平次。


【本文】


 平次はお勝手(かつて)へ行つて、()つ暗な中で徳利(とつくり)乾物(かんぶつ)(さが)して()ると、

 不器用な手つきで膳の上へ並べ、徳利の尻を銅壺(どうこ)に突込みました。

 「ところで、八」

 「へエ」

 「入口ばかり氣にするなよ、・・・ 俺は近頃手相(てそう)()つて居るんだが、

 酒の(かん)のつくまで、ちよいとお前の手相を見てやらうか」

 「へエ?妙なものに凝つたんですね、・・・ 手相を見て貰ふのは構はねえが、まさか見料(けんりょう)を取るとは言はないでせうね」

 「お前のことだから、見料位は立引(たてひ)よ、()づ手を出しな、・・・

 汚ねえ手だ、()が汚れて居るから筋がよく見えねえよ、・・・ こんな手で握られると、あの娘は(きも)(つぶ)すぜ」


【語彙説明】

〇銅壺(どうこ) ・・・ 火鉢の中に置き、湯を沸かし燗酒をつくる民具。

  炭から熱を受ける部分と湯を貯め徳利を浸ける部分に分かれ、二本のパイプで繋がれている。

   

〇見料(けんりょう) ・・・ 人相や手相などを見てもらうために払う料金。

立引く/達引く(たてひく) ・・・ 義理や意地で他人のために金を立て替えたり支払ったりすること。

  また特に、遊女が客の遊興費を自ら負担すること。

〇膽(きも)を潰(つぶ)す/肝をつぶす ・・・ たいそう驚くことを表す言い回し。臓腑が潰れるほど吃驚するさま。

  膽(肝)は気力や度胸を司る器官であるとされる。



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