劉濞はなぜ反旗を翻したか
【還暦ジジイの説明】
【故事】
「呉楚七国の乱」
高祖・劉邦が崩御した後、ご存知『チャイナ三大悪女』の筆頭、呂太后が実権を握り、権力を縦にしていたが、
「呂氏の乱」にて呂氏一族が滅び、従弟の文帝(劉恒)が即位した。
文帝の側近たちの中で、とくに新参者の鼂錯は積極的に諸侯王の勢力を弱めていくことを文帝に進言した。
しかし、中郎将の袁盎は「それは逆に劉氏一門の分裂を招き、匈奴に利するだけだ」と猛反対した。
文帝は袁盎の進言を容れた。
ある年に、呉の劉濞の世子の劉賢が、父の名代として、長安に参内した。
宴会が催され、その余興の「博」 ― テーブルゲームの一種 ― を廻って、皇太子の劉啓(後の景帝)と口論となり、
皇太子が劉賢に向けて盤を投げたところ、当たりどころが悪く、不幸にも劉賢は死んでしまった。
この事件と、その後の政府の対応に不満を抱いた劉濞は、諸侯王の義務である長安への入朝を、病と称して参内しなくなった。
朝廷を軽視する態度であったが、調査によって、劉濞が息子のことで、参内せず病と称していることが明らかになった。
憐れんだ文帝は従兄の劉濞の行為を不問に付し、劉濞が老齢であることを理由に参勤を免除し、杖と脇息を与えた。
劉濞は、朝廷から許されると企みを考えることを取りやめにした。
しかし、紀元前157年、文帝が崩御すると、事態は急変した。
文帝の後を継いだ景帝はかつて世子の劉賢を殺した相手であり、さらに景帝の側近である前述の鼂錯は文帝時代から積極的な諸侯王削減策を唱えていた。
銅と塩で巨万の富を蓄え、犯罪者を庇護する制度を保った劉濞は、危機感を覚え、工作に走った。
朝廷の政策に反感を持っている膠西王劉卬や楚王劉戊や趙王劉遂らに手をまわしたのだ。
紀元前154年、14歳以上の男子を徴兵して、二十余万の軍勢を率いて挙兵した。
これが「呉楚七国の乱」である。
中央集権に反感を覚えていた諸王はおろか、南越の兵まで加わったことで、反乱軍の総数は七十万を越えた。
呉の豊富な経済力もあって、当初の情勢は反乱軍が優勢だった。
しかし、劉濞は数を頼む以外、殆ど無策であった。
これに対して、朝廷は対策を打ち始めていた。
朝廷は諸王の反感を買っていた鼂錯を処刑し、反乱軍の政治的結束に綻びを生じさせた。
さらに、新たに先帝の信頼の厚い周亜夫を大尉に任じた。
周亜夫は正面の防衛を他の官軍に任せ、反乱軍の糧道を破壊する作戦を取った。
烏合の衆だった反乱軍の結束にヒビが入り始め、補給が間に合わなくなったので、上下問わず逃亡が相次いだ。
この事に危機を覚えた呉軍は壊滅した。
劉濞は親交のあった東甌王の下へ逃走したが、裏切りに遭い、刺客に殺害された。
また、反乱を共謀した各国の王やその太子らも自害し、もしくは朝廷軍に討ち取られ、呉楚七国の乱は3カ月で鎮圧された。
これ以降、漢王朝は諸侯王の勢力削減策をさらに強化し、中央集権制への移行を進めることになった。
【語彙説明】
【プロフィール】
〇劉 濞(りゅう び)
紀元前215年~ 紀元前154年、61歳没。前漢前期の宗室。呉楚七国の乱の首謀者。
劉喜(高祖劉邦の兄)の長男。弟に劉広(徳哀侯)がいる。